2011年11月30日水曜日

再臨運動の歴史(36)真理は反対を引き起こす



なぜ、真理は反対を引き起こすのでしょうか?
真理に従うことは、犠牲を要求されるからです。
耳ざわりのよい言葉のみを聴いているなら、反対は起こらないわけです。

聖書の預言を信じる人はほんのわずか。しかも、神の戒めに従おうとする者は非難される。
だから、「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」と記されています。

昔と同様に今日においても、時代の罪と誤りを指摘する真理を伝える
ことは、反対を引き起こす。「悪を行っている者はみな光を憎む。そし
て、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしな
い」(ヨハネ 3:20)。

人々は、自分たちの立場を聖書によって支持することができないのがわ
かると、多くの者はなんとかしてそれを支持しようと決意し、一般受け
のしない真理を擁護して立つ者たちの品性や動機を、悪意をもって攻撃
するのである。

各時代においてとられてきたのは、この同じ方針であった。エリヤはイ
スラエルを悩ます者と言われ、エレミヤは裏切り者と言われ、パウロは
神殿を汚す者と言われた。その当時から今日に至るまで、真理に忠誠を
尽くそうとする者は、治安を妨害する者、異端者、分離者と非難されて
きた。預言の確実な言葉をなかなか信じようとしない群衆は、その時代
の罪を大胆に譴責する者への非難を、なんの疑いもなく受け入れる。

この精神は、ますます増大している。そして聖書は、国家の法律が神の
律法と激しく衝突するために、神のすべての戒めに従おうとする者は悪
事を行う者として非難され罰せられるようになる、という時が近づきつ
つあることをはっきりと教えている。


引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年11月22日火曜日

再臨運動の歴史(35)現代への教訓は、旧約の時代に示されていた


Tatham Garden [slide] / Smithsonian Institution

現代人に対する教訓は、旧約聖書の時代にすでに示されていました。我々現代人が終末時代に生きるためにです。

古代イスラエルの歴史は、大きく変わります。彼らが奴隷となっていたエジプトから、脱出するところから劇的に変化します。

それは、イスラエルとそれを導く神との関わりです。神がイスラエルをエジプトから救い出した、という関係です。主役は神です。「イスラエルをエジプトから導き出した神」と神ご自身が言われたのです。

むかしのイスラエルの歴史は、再臨信徒の団体の過去の経験の、顕著
な実例である。神は、イスラエルの人々をエジプトから導き出されたよ
うに、ご自分の民を再臨運動において導かれた。大失望のときに、彼ら
の信仰は、ヘブル人が紅海で試みられたような試練を受けた。もしも彼
らが、過去の経験において彼らとともにあった神の導きの手に、なおも
信頼していたならば、彼らは神の救いを見たことであろう。

もしも、1844年の運動に一致して働いた者がみな、第3天使の使命
を受け入れ、聖霊の力によってそれを宣布していたならば、主は彼らの
努力とともに力強く働かれたことであろう。輝かしい光が、洪水のよう
に世界を覆ったことであろう。何年も前に、地の住民に警告は発せられ、
最後の働きが完結して、 キリストはご自分の民を救うためにおいでに
なっていたであろう。
Waterfall / narin-flickr
イスラエルはすぐに約束の地、カナンにはいることができずに、40年間荒野をさ迷い続けました。
カナンにはいれなかったのは、不信仰のためでした。カナンを与えようという神の約束を信じなかったのです。だから、荒野をさ迷ってしまった。

この不信は、歴史は繰り返すのごとく、最終時代に再び現れると記されています。

イスラエル人が荒野を40年もさまようことは、神のみこころではな
かった。神は、彼らをまっすぐにカナンの地に導いて、彼らをそこで、
聖く幸福な国民として定住させようとしておられた。

しかし、「彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえで」
あった(ヘブル 3:19)。堕落と背信のために彼らは荒野で滅び、
他の者たちが約束の国に入るために起こされた。

同じように、キリストの再臨がこのように遅れ、神の民がこのように
長く、罪と悲しみのこの世にとどまることは、 神のみこころではな
かった。しかし、不信が、彼らを神から引き離した。彼らが神に命じ
られた働きをすることを拒んだ時に、使命を宣言するために他の者た
ちが起こされた。

イエスは、世界をあわれんで、彼の再臨を延ばしておられる。それは、
罪人に警告を聞く機会を与え、神の怒りが注がれる前に、主のうちに
避難させるためである。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(34)再臨待望者は皆、聖所と神の律法を受け入れたのか?

Looking Down the Upper Jordan Valley from Mount HermonLooking Down the Upper Jordan Valley from Mount Hermon / OSU Special Collections & Archives

再臨待望者たちは皆が、聖所と神の律法を受け入れたのでしょうか?
これらの真理すなわち聖所と神の律法=安息日を拒否したと記録されています。

再臨の日時を定めることは、今や、無意味である。なぜなら、1844年はキリストが天の聖所の至聖所に入り、キリストを信じる者の「罪を取り除く」働きを開始したからだ。

再臨信徒のするべき事は、天の至聖所におられるキリストに従って行く。律法=安息日を守る。この2点だった。天の至聖所に向かって悔い改め、願いを捧げ、安息日を休む生活を始める。これがとるべき道だった。

ところが、多くの者はそうしなかった。と記録されています。

再臨信徒の大部分は、聖所と神の律法に関する真理を拒否した。そし
て、多くの者は、再臨運動に関する信仰をも放棄して、この働きに適用
された預言について、不健全で矛盾した意見を取り入れた。ある人々は、
キリスト再臨のはっきりした時日を何度も定めるという誤りに陥った。

今や、聖所問題の上に輝いている光は、どんな預言的期間も再臨までは
及んでいないこと、そして、この事件の正確な時は預言されていないこ
とを、彼らに示したはずであった。しかし彼らは、光から顔をそむけて、
主の来られる日を定め続け、そのたびに失望に陥っていた。

Most Holy Redeemer / H.L.I.T.


エレン・G・ホワイトは聖書の警告に聴くように指示しています。
テサロニケ教会が、キリストの再臨に関して誤った見解を抱いた時、
使徒パウロは、彼らの希望と期待とを注意深く神の言葉によって吟味す
るように、彼らに勧告した。彼は、キリスト再臨の前に起こる事件を示
している預言を引用して、彼らの時代にキリストがおいでになると期待
する根拠がないことを彼らに示した。

「だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない」と彼は警告
している(Ⅱテサロニケ 2:3)

もしも彼らが、聖書の承認しない期待を抱くならば、誤った行動に走り、
失望の結果不信心な者たちの笑いものになり、落胆して、自分たちの救
いに不可欠な真理を疑うような誘惑に陥ってしまったであろう。

テサロニケ人への使徒の勧告は、終末時代に生きている者たちに対して
の、重大な教訓を含んでいる。主の再臨の明確な時日の上に信仰を置く
ことができないなら、熱心に準備にいそしむことができないと感じてい
る再臨信徒が多い。しかし、彼らの希望が、何度も何度も燃え上がって
は崩れ去るうちに、彼らの信仰は打撃を受けて、預言の大真理をほとん
ど感じることができなくなってしまうのである。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年11月21日月曜日

再臨運動の歴史(33)日曜日遵守の議論が当然のように起こった

costa rican mountain rangecosta rican mountain range / costa-rica-beauty

安息日を守ることが示されると、日曜日を守るのが一般的だ、という議論が起こりました。今でもそうでしょう。今、声を大にして、「土曜日が安息日だ、神の律法だから守ろう!」と言ったら、きっと「日曜日が休みの日だ!皆が休んでいる。」というに決まっています。

安息日の義務が示された時、多くの者は、世俗の立場から考えて、次の
ように言うのであった。「われわれは、これまで常に日曜日を守ってき
た。われわれの先祖たちも守った。そして、多くの善良で敬虔な人々が、
日曜日を守って幸福に死んだ。もし彼らが正しかったのであれば、われ
われも正しい。この新しい安息日を守れば、世との調和から外れ、彼ら
に感化を及ぼすことができない。7日目を守る小さな団体が、日曜日を
守る全世界に対抗して、いったい何を成し遂げようというのか?」

ユダヤ人が、キリストを拒んだことを正当化しようとしたのは、同様の
議論によってであった。われわれの先祖たちは、犠牲をささげることに
よって神に受け入れられてきたのだから、その子孫であるわれわれも、
同様の方法で救いを受けることのできないはずがあろうか、というので
あった。同様に、ルターの時代において、法王教徒たちは、真のキリス
卜者たちはカトリックの信仰をもって死んだ、それゆえにこの信仰は、
救いを受けるのに十分である、と論じた。しかし、このような論理は、
宗教的信仰や行為のあらゆる発達を、はなはだしく阻害するものである。


日曜日遵守は確立された教義で、幾世紀にもわたって広く行われてき
た教会の慣習である、と論じる者が多い。このような議論に対し、安息
日とその遵守は、もっと古くもっと広範囲のもの、創世以来のものであ
り、神と天使たちとの認めるものであることが示された。地の基がすえ
られ、明けの星が相共に歌い、神の子たちがみな喜び呼ばわったその時、
安息日の基礎が置かれたのである(創世記 2:1―3、ヨブ 38:6、
7参照)。

この制度がわれわれの崇敬を要求するのは当然である。それは、人間の
権威によって命じられたものでも、人間の伝承によるものでもない。そ
れは、日の老いたる者によって制定され、その永遠の言葉によって命じ
られたものである。

DSC_0077 / tracie7779

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年11月17日木曜日

再臨運動の歴史(32)安息日遵守は再臨の時の教会の特徴

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安息日はアダムの時から守ったもので、その後も忠実な人々が尊んできました。
最終時代に、永遠の福音がのべ伝えられます。その結果、神の戒めを守る、イエスを信じる信仰を持ち続ける聖徒が多数現れるのです。

「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」
(黙示録14:12)

創造主の休息と祝福とによって聖別された安息日は、罪を犯さないアダ
ムが聖なるエデンにおいて守ったものであり、また、堕落したが悔い改
めたアダムが、楽園を追放された後も守ったものであった。安息日は、
アベルから義人ノア、アブラハム、ヤコブに至るすべての家長たちが守
った。選民がエジプトに奴隷になった時、多くの者は、広く行き渡って
いた偶像礼拝のただ中で、神の律法の知識を忘れた。

しかし、主は、イスラエルを救い出された時、集まった群衆に、大いな
る威光の中で、ご自分の律法を宣言された。それは彼らが神のみこころ
を知り、永遠に神を畏れ神に従うためであった。

その時から現在に至るまで、神の律法に関する知識は地上で保たれ、
第4条の安息日は守られてきた。「不法の者」が、神の聖日を踏みにじ
りはしたが、その至上権時代にあっても、ひそかなところに隠れて、忠
実な人々が安息日を尊んでいた。


これらの真理は、黙示録 14 : において「永遠の福音」と関連して示
されているように、再臨の時のキリストの教会の特徴である。なぜな
ら、三重の使命が伝えられる結果として、
「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の
忍耐がある」
と言われているからである。そして、この使命は、主の再臨に先だって
伝えられる最後のものである。これが宣布されたあと、直ちに、人の子
が地の収穫を刈るために栄光のうちに来られるのを、預言者は見たので
ある。

Flower / 花(はな) / TANAKA Juuyoh (田中十洋)

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年11月16日水曜日

再臨運動の歴史(31)安息日を回復するとはどういうことか?

Red flowersRed flowers / dicktay2000

なぜ、安息日が回復されなければならないのか?安息日の回復がどのように行なわれるのか?
イザヤ書の預言が解き明かされています。

イザヤ書で譴責(けんせき)されているのは、「わが民」すなわち「神の民」と呼ばれる人々であることに注意しなければなりません。
神に仕えると公言する者が、神の律法を踏みにじっているというのです。

神の民と称する人々が、まず、安息日を守らねばならない。神が要求するとおりに守らねばならない。ということでしょう。自己流はだめ!なのです。

また、次のような命令が与えられている。
「大いに呼ばわって声を惜しむな。あなたの声をラッパのようにあげ、
わが民にそのとがを告げ、ヤコブの家にその罪を告げ示せ。」
罪の譴責(けんせき)を受けなければならない者は、邪悪な世ではな
くて、主が「わが民」と呼ばれる人々である。主は、さらにこう言わ
れる。

「彼らは日々わたしを尋ね求め、義を行い、神のおきてを捨てない国
民のように、わが道を知ることを喜ぶ」(イザヤ 58:1、2)。

ここには、自分たちを義とし、神の奉仕に非常な関心を示すかのよう
に思われる一団の人々が示されている。しかし、人の心を見通される
お方の、手きびしい厳粛な譴責は、彼らが神の律法を踏みにじってい
ということを証明している。

こうして預言者は、見捨てられていた戒めを指摘する。
「あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と
呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と呼ぶようになる。もし
安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、
安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊
んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語
らないならば、その時あなたは主によって喜びを得」る
( 同 58:12―14)。

  この預言もまた、われわれの時代に当てはまる。ローマの権力に
よって安息日が変更された時、神の律法に破れができた。しかし、神
の制度が回復される時が来た。破れは修繕され、代々の基は立てられ
なければならない。

red flower / davedehetre

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年11月15日火曜日

再臨運動の歴史(30)安息日は最終時代に回復される

sun rising in front of my roomsun rising in front of my room / rafiq s

安息日は最終時代に回復されるという預言が、イザヤ書に書かれています。
なぜ、安息日なのか?
神=主が世界を創造されたことがはっきりと記されています。安息日は創造主を示しています。
安息日が回復されるとき、創造主なる神が人々に知られ、あがめられるのです。
8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。(出エジプト記20章)


最後の時代に安息日の改革の働きが完成されることが、イザヤの預言
の中に予告されている。
「主はこう言われる、『あなたがたは公平を守って正義を行え。わが
救の来るのは近く、わが助けのあらわれるのが近いからだ。安息日を
守って、これを汚さず、その手をおさえて、悪しき事をせず、このよ
うに行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである。』」

「また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべ
て安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は―わ
たしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる」
(イザヤ 56:1、2、6、7)。


この聖句が、キリスト教時代にあてはまることは、その前後関係から
見て明らかである。「イスラエルの追いやられた者を集められる主な
る神はこう言われる、『わたしはさらに人を集めて、すでに集められ
た者に加えよう』と」(同 56:8)。ここに、福音によって異邦人
が集められることが予告されている。そして、その時安息日を尊ぶ者
たちに、祝福が宣言されている。こうして、第4条を守る義務は、キ
リストの十字架と復活と昇天を越えて、彼のしもべたちが福音の使命
をすべての国民に宣べ伝える時にまで及ぶのである。


主は、同じ預言者によって、「あかしをたばねよ。律法をわが弟子た
ちのうちに印せよ」と命じておられる(イザヤ 8:16・英語訳)。
Bind up the testimony, seal the law among my disciples.
(KJV)

神の律法の印は、第4条の戒めの中に見いだされる。十戒の中で、第
4条だけが、律法を与えた方の名と称号とを2つとも明らかにしてい
る。それは、彼が、天と地の創造者であることを宣言し、したがって、
他のすべてにまさって崇敬と礼拝を受くべき方であることを示してい
る。この戒めを除いては、だれの権威によって律法が与えられたかを
示すものは、十戒の中に何もない。

Sunset at SeaSunset at Sea / ThreeDee912
英文の挿入は投稿者による。
引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年11月14日月曜日

再臨運動の歴史(29)日曜休業令とは何か?

Flag at New York Stock ExchangeFlag at New York Stock Exchange / Eric Beato

日曜休業令とは、法律で日曜日を休むように強制することです。日曜日を守る (Sundaykeeping )よう法律を作り施行するので日曜休業令 (Sunday Law )といわれています。

今までにも、ドイツなどで部分的に日曜休業令が出ています。しかし、一部の地域だけに限られる特殊な条例です。

終末時代には、まずアメリカで始まり、やがて全世界的に日曜休業令が施行されることになります。ローマ教会(ローマ法王)とアメリカのプロテスタント教会は一致して、日曜休業令を発布、施行します。教会が国家権力と結合して、法令を出す。安息日を守る者には罰則を与える。こうして、信教の自由が奪われるのです。

日曜日遵守を受け入れることは、ローマ教会が定めた日曜安息日に同意することになります。聖書の安息日を知りながら、なおも日曜日を遵守するなら、獣の刻印を受けることになるのです。

日曜休業令 が獣とその像の強制となり、日曜日遵守が獣の刻印となるのです。


ローマ教会は、その至上権の主張を撤回してはいない。そして、世界と
プロテスタント諸教会は、聖書の安息日を拒否して、ローマ教会が造っ
た安息日を受け入れる時に、事実上この主張を認めるのである。

プロテスタント諸教会が、日曜日遵守を強要することは、法王制、すな
わち獣を拝むことを強要することである。第4条の要求を知りながら、
真の安息日の代わりに偽物を守ることを選ぶ者は、そうすることによっ
て、それを命じた唯一の権威に敬意を表しているのである。

しかし、宗教的義務を世俗の権力によって強制するという行為そのもの
によって、教会自身が獣の像を作るに至る。それゆえに、米国における
日曜日遵守の強制は、獣とその像の礼拝の強制となるのである。


しかし、過去においては、聖書の安息日を守っていると信じて、日曜日
を守ってきたキリスト者たちがいた。また、日曜日は神が定められた安
息日であると心から信じている真のキリスト者たちが、今も各教会にお
り、ローマ・カトリック教会も例外ではない。神は彼らの真剣な心と神
の前での誠実さを受け入れられる。

しかし、日曜日遵守が法律によって強いられ、真の安息日を守るべきこ
とが世界に明らかにされるその時に、神の戒めを破って、単にローマの
権威によるものにすぎないところの戒めに従う者は、それによって、神
よりも法王教をあがめるのである。

そのような人は、ローマに敬意を払い、ローマが定めた制度を強制する
権力に敬意を払っている。彼は、獣とその像を拝んでいる。

こうして、神がご自分の権威のしるしであると宣言された制度を拒んで、
その代わりに、ローマがその至上権のしるしとして選んだものを尊重す
る時に、人々は、それによって、ローマに対する忠誠のしるし、すなわ
ち「獣の刻印」を受けるのである。

こうして、この問題が人々の前に明らかに示されて、神の戒めと人間の
戒めのどちらかを選ばねばならなくなった時、それでも神の戒めを犯し
続ける人々が、「獣の刻印」を受けるのである。

Watch the watch / nicolasnova


引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(28)安息日の変更は聖書に基づいていない

Old Bible textOld Bible text / JacobEnos

安息日を土曜日から日曜日に変更したのは、キリストか?ローマ法王か?

以下の引用文中の聖書のことばから、キリストが安息日を変更したことを読み取ることはできません。

あるプロテスタント教会の牧師さんは「教会の権威によって日曜日に変更した」と言いました。

以下の引用文を読むかぎり、安息日を変更したのはローマ教会です。日曜日を礼拝の日としているプロテスタント教会は、ローマ教会に追随していることになります。

日曜日に神を礼拝するのは、聖書から証明することができません。聖書から証明することが出来ない限り、安息日はアダムの時から変わっていないことになります。神を礼拝する日は安息日=土曜日以外にありません。

安息日を変更することは、神の律法を変えることです。安息日の変更は教会の権威を意味し、「獣の刻印」と言われるのです。

しかし聖書は、主の日として、第1日ではなくて7日目をさしている。
キリストは、「人の子は、安息日にもまた主なのである」と言われた。
第4条の戒めには、「7日目はあなたの神、主の安息である」と言われ
ている。そして、主は、預言者イザヤによって、その日を「わが聖日」
と呼ばれた(マルコ 2:28、イザヤ 58:13)。

安息日を変更したのはキリストであるとよく言われるが、キリストご自
身の言葉が、そうでないことを証明している。彼は、山上の垂訓の中で
次のように言われた。

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃
するためではなく、成就するためにきたのである。
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の1点、1画もすたるこ
とはなく、ことごとく全うされるのである。
それだから、これらの最も小さいいましめの1つでも破り、またそうす
るように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろ
う。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と
呼ばれるであろう」(マタイ5:17―19)。


ローマ・カトリック教徒は、彼らの教会が安息日を変更したことを認め、
プロテスタントが日曜日を守るのはカトリック教会の権威を認めること
であるという。カトリック教会の教理問答には、第4条の戒めに従って
守るべき日についての質問の答えとして、次のように書いてある。

「古い律法の時代には、土曜日が聖日であった。しかし、教会は、イエ
ス・キリストの教えと神の霊の指導の下に、日曜日を土曜日の代わりに
した。それゆえに今、われわれは、7日目でなくて、第1日を聖なる日
とする。日曜日が、今では、主の日である。」

カトリックの著者たちも、カトリック教会の権威のしるしとして、「安
息日を日曜日に変更したという、まさにその行為」を挙げ、それは「プ
ロテスタントも承認している。・・・・彼らは日曜日を守ることによって、
祝祭日を制定し人々を罪に定める教会の権威を、認めているのである」
と言っている。

とするならば、安息日の変更は、ローマ教会の権威のしるし、あるいは
刻印、すなわち「獣の刻印」でなくて何であろうか。

Bible / Savio Sebastian


引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年11月7日月曜日

再臨運動の歴史(27)獣の刻印は神の戒めを破ること

神の戒めを守る者と、神の戒めを犯す者を対比させて書かれています。

獣とは、神の戒めを破るものであり、獣の像も同様です。

旧約聖書ダニエル書には、「彼はまた時と律法とを変えようと望む」と預言されています。
彼とは小さい角で表される法王制のこと。
新約聖書では「不法の者」と書かれています。不法の者は神に反抗し、自らを神よりも高くします。
時と律法を変えることによって、神よりも高くなるのです。

預言は、獣とその像とを拝することについて警告したあとで、「ここ
に、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒・・・・があ
る」と宣言する。

神の戒めを守る人々が、獣とその像とを拝み、その刻印を受ける者たち
と、このように対照されていることから見ると、神を拝む者と獣を拝む
者との間の区別は、一方は神の戒めを守り、他方はそれを犯すことにあ
るとわかる。

獣の特徴、したがって、その像の特徴は、神の戒めを破ることである。

ダニエルは、小さい角、すなわち法王制について、次のように言ってい
る。「彼はまた時と律法とを変えようと望む」(ダニエル 7:25)。

そして、パウロは、この同じ権力を、神よりも自分を高める「不法の者」
と呼んだ。1つの預言は他の預言を補足する。法王制は、神の律法を変
更することによってのみ、自らを神よりも高くすることができたのであ
る。

だれであっても、こうして変更された律法を、それと知りつつ守る
ならば、律法を変更した権力に最高の栄誉を帰していることになる。法
王制の律法に従うこのような行為は、神のかわりに法王に忠誠を誓うし
るしとなるのである。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年10月27日木曜日

再臨運動の歴史(26)獣の刻印とは何か?

「また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。」(ヨハネ黙示録13:16,17)

上記の聖書の言葉が「獣の刻印」の預言です。
獣の刻印とは何でしょうか?

「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、 神の怒りの杯、、、、を飲み、、」(ヨハネ黙示録14:9,10)

上記の聖書の言葉の
獣とその像とは何でしょうか?

まず、獣は法王制とされています。過去の歴史において強制力を持って人々に礼拝を強要したのは法王制だったのです。

2つの角を持った獣は、「また、小さき者にも、大いなる者にも、富
める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、
その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を
買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、
または、その名の数字のことである」(黙示録 13:16、17)。

第3 天使の警告は、「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を
受ける者は、神の怒りの杯・・・・を飲」むと告げている。

このメッセージの中にあげられている「獣」、それを礼拝するようにと
2つの角を持った獣が強制するところの獣は、黙示録13章の最初の獣、
すなわちひょうに似た獣―法王制―のことである。

「獣の像」は、プロテスタント諸教会が自分たちの教義を強制するために
公権力の助けを求める時に起きてくるところの、そうした背教のプロテス
タント教会を表している。ここで、さらに、「獣の刻印」が明らかにされ
なければならない。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年10月26日水曜日

再臨運動の歴史(25)アメリカと獣の像、教会合同運動はその先ぶれか?

聖書の預言の一つに、終末には宗教的堕落が起こることが示されています。

アメリカにおける教会合同の動きは、獣の像をつくる先ぶれなのでしょうか?エレン・G・ホワイトのこの書が書かれた1900年代にすでに教会合同の動きがあったようです。

現在、各国で教会合同の動きが活発化しているようです。メガチャーチといわれる大型教会の出現もあります。


聖書は、主の再臨に先だって、初期の時代の状態に似た宗教的堕落の
状態が起こるといっている。

「終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を、愛する者、
金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう
者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、
無節制な者、粗暴な者、善を、好まない者、裏切り者、乱暴者、高言を
する者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨
てる者となるであろう」(Ⅱテモテ 3:1―5)。

「しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、
惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう」
(Ⅰテモテ 4:1)。
サタンは、「あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる
不義の惑わしとを」もって働く。そして、「自分らの救となるべき真理に
対する愛を受けいれな」い者はみな、「彼らが偽りを信じるように、迷わ
す力」に陥ってしまうのである(Ⅱテサロニケ 2:9―11)。

こうした不信の状態に達した時に、初期の時代におけると同様の結果が生
じるのである。

初期時代と同様の結果とは、ローマ教会がおこなった異端の迫害です。教会合同により、共通の教理ができあがります。その教理に一致しないものは異端として排除する、迫害するという構造です。

プロテスタント教会内の大きな信仰の差異は、どんなに努力しても一
致を図ることはできないということの決定的証拠であると考える人が多
い。しかし、ここ数年にわたって、プロテスタントの諸教会内において
共通の教義を土台として合同しようとする気運が強く動き出している。
このような合同を達成するためには、たとい聖書的見地からどんなに重
要なものであっても、すべての者が一致しない問題点は、必然的に放棄
されねばならなくなる。

米国の主要な教会が、その共通の教理において合同し、国家を動かし
て教会の法令を施行させ、教会の制度を支持させるようになるその時に、
プロテスタント・アメリカは、ローマ法王制の像を造り、その必然の結
果として、反対者たちに法律上の刑罰を加えることになるのである。

こんなことが起こりうるだろうか?少し前まではそう思われたが、2011年の今、はたしてどうでしょうか?

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

世界の終末の時期を予言するのは間違い。1844年に経験済みのこと

最近、世界の終末を予言したキリスト教徒がいたようです。ニュースによれば、10月21日と予言したが、なにも起こらず、沈黙しているとか。

Yahoo! ニュースより引用
[アラメダ(米カリフォルニア州) 20日 ロイター] 今月21日を「世界の終末の日」と予言してメディアの注目を集めた米国のキリスト教徒ハロルド・キャンピング氏(90)が、「審判の日」を前に沈黙を守っている。

ラジオ局「ファミリー・ステーション」を主宰するキャンピング氏は今年、5月21日を「最後の審判の日」と予言して一躍話題の人となった。その後、当日に何も起こらなかったのは計算ミスだと釈明し、新たに10月21日を世界の終末の日と予言し直した。

5月21日の前には、支持者らが全米約2200カ所に最後の審判の日に関する屋外広告を掲示するなど、米国で大きな騒動となっていた。しかし、今回はそうした動きもほとんど見られない。

世界の終末の予言は、1844年にアメリカでおこなわれましたが、 終末の日時を定めるのは不可!との結論が出ています。なぜなら、聖書は終末の日時を定めていないからです。
しかし、終末は近いとも結論がでています。

1844年はキリストが天の至聖所に入り、調査審判が始まったからです。調査審判が終わると、キリストは地上に再臨されると、聖書は告げています。

2011年10月20日木曜日

再臨運動の歴史(24)政治権力と教会権力の提携

獣の像とは何か?この像は2本の角を持った獣によって造られる。
獣の像を造るきっかけを作ったのは、教会内の背教でした。初代教会は異教を受けいれ、世俗の権力と結びついた。その結果、法王権という権力が人々を支配しました。

しかし、この「獣の像」とは何であろうか。そして、それは、どのよ
うにして造られるものなのであろうか。この像は、2本の角をもった獣
によって造られるものであり、先の獣に模した像である。それは、また、
獣の像とも呼ばれている。したがって、像が何であり、どのようにして
造られるかを知るためには、獣そのもの、すなわち法王権の特徴を研究
しなければならない。

初代教会は、福音の単純さを離れて堕落し、異教の儀式と習慣を受け
入れた時に、聖霊と神の力を失った。そして、人々の良心を支配するた
めに、世俗の権力の援助を求めた。

その結果が、法王権であって、それは、国家の権力を支配し、それを
教会自身の目的、特に「異端」の処罰のために用いた教会であった。
国が獣の像を造るためには、宗教的権力が政府を支配し、教会が、教会
自身の目的を遂行するために、国家の権力を用いるようにならなければ
ならない。

教会が世俗の権力を握った場合は常に、教会はそれを自分の教義に反
対する者を罰するために用いてきた。世俗の権力と提携することによっ
てローマの範に従ったプロテスタント諸教会も、良心の自由を束縛しよ
うとする同様の欲望を表した。英国の国教会が、長年にわたって反対者
を迫害したことは、そのよい例である。16世紀と17世紀にわたって、
幾千という非国教徒の牧師たちが、教会を去らなければならなかった。
そして、牧師も信徒も、多くの者が罰金、投獄、拷問、殉教の憂き目に
あったのである。

初代教会が政府の支持を求めるようになったのは、背教のためであっ
た。そして、これが、法王権―獣―の発展する道を開いた。「まず背
教のことが起り、不法の者・・・・が現れる」とパウロは言った(Ⅱテサロ
ニケ 2:3 )。そのように、教会内の背教が、獣の像を造る道を開くの
である。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(23)アメリカの変貌

アメリカ合衆国の誕生と、最終時代におけるアメリカの変貌が預言されています。子羊のような角を持つ獣は、龍のようにものを言う。獣を拝ませる。獣の像を造らせる。という行為を行なうと預言されています。

「それには小羊のような角が2つあっ」た。小羊のような角は、若々し
さと無垢(むく)と温順さとを示すもので、1798年に「上って来る」
のを預言者が見た時の米国の性格をよく表わしている。最初、米国に逃
れ、王の圧迫と司祭たちの迫害からの避難所を求めた亡命キリスト者た
ちの中には、政治的自由と宗教的自由の広い基盤の上に政府を樹立しよ
うと決意したものが多くあった。彼らの意見は、独立宣言の中に織り込
まれ、「すべての人は平等に造られ、」「生命、自由、および幸福の追
求」という奪うことのできない権利を与えられている、という偉大な真
理の表明となっている。

宗教の自由も保証され、すべての人は良心の命じるところに従って神を
礼拝することが許されている。共和主義とプロテスタント主義が、国家
の根本原則となった。これらの原則が、その権力と繁栄の秘けつである。
全キリスト教国の、圧迫され踏みにじられた人々が、関心と希望を抱い
てこの国に目を向けた。幾百万という人々がその岸辺にやって来て、米
国は、世界で最も強い国の1つに数えられるまでになった。

しかし、小羊のような角をもった獣は、「龍のように物を言った。そ
して、先の獣の持つすべての権力をその前で働かせた。また、地と地に
住む人々に、致命的な傷がいやされた先の獣を拝ませた。・・・・地に住む
人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像
を造ることを、地に住む人々に命じた」(黙示録 13:11―14)。

この象徴の持つ、小羊のような角と龍のような声は、ここで表されて
いる国家の宣言と実行との著しい矛盾を示すものである。国家が「物を
言う」とは、その立法および司法権の活動のことである。米国は、その
ような行為によって、国家の方針の基礎として宣言した自由と平和の原
則を裏切るのである。それが「龍のように」語り、「先の獣の持つすべ
ての権力」を働かせるという預言は、明らかに、それが、龍やひょうに
似た獣によって象徴される国々が表した狭量と迫害の精神を持つように
なるということを予告している。

そして、2つの角を持った獣が「地と地に住む人々に、・・・・先の獣を
拝ませ」るという言葉は、この国が権力を行使して、法王権に対する礼
拝行為となるような何かの遵守を強要することを示している。

このような行動は、この政府の原則、自由制度の精神、独立宣言の率
直厳粛な言明、そして憲法に、全く相反するものである。米国の建国に
当たった人々は、世俗の権力が教会のことに用いられて、その当然の結
果として狭量と迫害が起こることを避けようと、賢明にも努めた。憲法
には、「国会は、宗教の設立に関する、もしくはその自由な活動を禁ずる
法律を制定してはならない」、また、「合衆国のいかなる公職につくに当
たっても、その資格として、宗教的条件を課してはならない」とある。

国民の自由を擁護するこれらの条項にはなはだしく違反することなしに
は、国権は、どんな宗教的法令も施行することはできない。しかし、そ
のような矛盾した行動をとることは、象徴に示されているとおりである。
小羊のような角を持った獣は、純潔柔和で悪意のないことを公言しなが
ら、龍のように物を言うのである。

「地に住む人々を惑わし・・・・(彼らに)獣の像を造ることを・・・・命じ
た。」ここに、立法権が国民にある政体が明示されている。これは、合衆
国が預言に示された国であるというきわめて顕著な証拠である。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(22)アメリカ合衆国の出現

旧約聖書のダニエル書には、アメリカ合衆国の出現が預言されています。その特徴は、地から上ってくる。子羊のような角がある。

ここで、もう1つの象徴が紹介される。預言者は、次のように言って
いる。「わたしはまた、ほかの獣が地から上って来るのを見た。それに
小羊のような角が2つあっ」た(ダニエル 7:11)。

この獣の外見と出現の模様はともに、それが表している国家が、それに
先だってさまざまの象徴のもとに表された国々とは異なっているという
ことを示している。世界を支配してきた強国は、「天の四方からの風が
大海をかきたて」た時に現れた猛獣として、ダニエルに示された
(ダニエル 7:3)。

黙示録 17:では、天使が、水は「あらゆる民族、群衆、国民、国語」
を表わしていると説明した(黙示録 17:15)。風は、争闘を象徴し
ている。天の四方からの風が大海をかきたてるとは、諸国が権力を握る
ために起こした征服と革命の恐るべき光景を表している。


しかし、小羊のような角をもった獣は、「地から上って来る」のが見え
たのであった。このように表される国は、自国を確立するために他の諸
国を覆すのではなくて、まだだれにも占有されていない領土に起こり、
徐々にまた平和のうちに成長する国でなければならない。したがって、
旧世界の込み合った争い合う国々の中、すなわち、あの「民族、群衆、
国民、国語」の荒海の中からは起こり得ないのである。それは、西半球
の大陸に求められねばならない。

1798年に、新世界のどんな国が、勢力を伸ばし、将来強大な国家に
なる可能性を示して、世界の注目を集めていたであろうか。この象徴
が、どの国に適用されるかは、実に明白である。この預言の指示すると
ころに合致する国は、ただ1つしかない。それは、疑いもなく、アメリ
カ合衆国を指している。

獣は、「地から上って来る」のが見えた。そして、翻訳者たちによれば、
ここで「上って来る」と訳されている言葉は、字義どおりには、「植物
のように成長する、または、生える」という意味である。そして、すで
に見たように、その国は、どの国にも占有されていない領土に起こらな
ければならない。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(21)獣とはなにか

第三天使とは、第一、第二の天使に続いて来る天使で、大声でメッセージを宣言します。

第三天使は、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ち続ける者と
は対照的に、別の一団を指摘している。そして彼らの誤りに対して、
粛で恐ろしい警告が発せられている。「おおよそ、獣とその像とを拝み、
額や手に刻印を受ける者は、・・・・神の激しい怒りのぶどう酒を飲」む
(黙示録 14:9、10)。

このメッセージを理解するには、ここに用いられている象徴を正しく解
釈することが必要である。獣、像、刻印とは、いったい何を表わしてい
るのであろうか。

これらの象徴が用いられている一連の預言は、黙示録 12 : から、
キリストを誕生の時に滅ぼそうとした龍から、始まっている。龍は、サ
タンであると言われている(同 12:9)。救い主を殺すためにヘロデ
を動かしたのは、サタンであった。しかし、キリスト教時代の初期にお
いて、キリストと彼の民に戦いをいどんだサタンの主力は、ローマ帝国
であり、そこにおいて最も有力な宗教は、異教であった。こうして、龍
は、第一義的にはサタンを表わすが、第二義的には異教ローマの象徴で
ある。

第13章(1―10)にはもう1つの獣が描かれていて、それは「ひ
ょうに似ており、」龍は、「自分の力と位と大いなる権威とを、この獣
に与えた。」この象徴は、たいていのプロテスタントが信じてきたよう
に、かつて古代ローマ帝国が握っていた力と位と権威とを継承した法王
権を表わしている。ひょうに似た獣について、次のように言われている。

「この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、・・・・そ
こで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天
に住む者たちとを汚した。そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝
つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する
権威を与えられた。」ダニエル 7:の小さい角の描写とほとんど同じで
あるこの預言は、疑いもなく法王権を指している。

4 2か月のあいだ活動する権威が与えられた。」 そして、「その頭
の1つが、死ぬほどの傷を受けた」と預言者は言っている。また、「と
りこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らも
つるぎで殺されねばならない」とある。42か月は、ダニエル 7:の
ひと時と、ふた時と、半時の間」、つまり3年半、すなわち1260日
と同じで、その期間のあいだ、法王権は神の民を圧迫するのであった。

この期間は、すでに述べたように、法王権が至上権を握った紀元538年
に始まり、1798年に終わった。この時、法王はフランス軍の捕虜に
なり、法王権は致命的な傷を受けた。「とりこになるべき者は、とりこ
になっていく。」

法王権の歴史上の事実が預言されています。法王はフランス軍の捕虜になり、そのことが「死ぬほどの傷を受けた」と預言されています。


引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年10月17日月曜日

再臨運動の歴史(20)安息日の意味

安息日は神が創造主であることを示しています。神が創造主であることが、神を礼拝する根拠です。神が創造主であり、我々人間は神に造られたものだからです。

第一天使とは、ヨハネの黙示録14:6に登場します。「わたしは、もうひとりの御使(みつかい)が中空を飛ぶのを見た。」この御使=天使のこと。この天使に続いて第2、第3の天使が登場し、それぞれがメッセージを宣言します。

神が創造主であるという聖書のメッセージは、進化論に慣れ親しんだ人には受け入れがたいものです。しかし、聖書は初めから、神が創造主であると宣言しています。


第一天使は、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ」、神を天地の創造主と
して礼拝せよと、人々に呼びかけている。そうするためには、神の律法
に従わなければならない。

賢者は、「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」
と言っている(伝道の書 12:13)。
神の戒めに対する服従がないならば、どんな礼拝も神に喜ばれることは
できない。
「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。」「耳を
そむけて律法を聞かない者は、その祈でさえも憎まれる」(Ⅰヨハネ 5:
3、箴言 28:9 )。

神を礼拝する義務は、神が創造主であり、他のすべてのものはその存
在を神に依存している、という事実に基づいている。そして、聖書の中
で、異教の神々にまさって神が崇敬と礼拝を受けるべきであると示され
ている時は、常に、神の創造の力がその実証としてあげられている。

「もろもろの民のすべての神はむなしい。しかし主はもろもろの天を造
られた」(詩篇 96:5)。「聖者は言われる、『それで、あなたがた
は、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか。』
目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。」
「天を創造された主、すなわち神であって、・・・・地を・・・・造られた主は
こう言われる、『わたしは主である、わたしのほかに神はない。』」
(イザヤ 40:25、26、45:18)。


詩篇記者も言っている。「主こそ神であることを知れ、われらを造られた
ものは主であって、われらは主のものである。」「さあ、われらは拝み、
ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう」( 詩篇 100:
3、95:6)。

また、天において神を礼拝する聖者たちは、神をあがめるべきその理由と
して、「あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。
あなたは万物を造られました」と述べている(黙示録4:11)。

黙示録 1 4: には、創造主を礼拝するようにという呼びかけが人々
に対してなされている。そして、三重の使命の結果として、神の戒めを
守る一団の人々が起こることを、預言は示している。

神の戒めを守る「聖徒」は、英文ではsaintsと複数になっています。ゆえに、神の戒めを守る「一団の人々」といわれているのです。

これらの戒めの1つは、神が創造主であることを直接指示している。
4条は、次のように宣言している。「7日目はあなたの神、主の安息で
ある。・・・・主は6日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを
造って、7日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖
とされた」(出エジプト20:10、11)。

安息日について、主は、さらに、それが「しるしとなって、主なるわた
しがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである」
と言われる(エゼキエル 20:20)。
そしてその理由は、「それは主が6日のあいだに天地を造り、7日目に
休み、かつ、いこわれたからである」と言われているのである
(出エジプト 3 1:17)。

「創造の記念としての安息日の重要さは、われわれがなぜ神を礼拝す
べきであるかという真の理由を常に考えさせるところにある。」すなわち、
神は創造主であって、われわれは神に造られたものだからである。「それ
ゆえに、安息日は、礼拝の根底そのものである。というのは、安息日が、
他のどんな制度よりも、最も感銘深い方法で、この大真理を教えている
からである。7日目における礼拝だけでなく、すべての礼拝の真の根拠
は、創造主と造られたものとの区別にある。この大事実は、決して廃す
ることのできるものではなく、また決して忘れてはならないものであ
る。」

神がエデンで安息日を制定されたのは、この真理を常に人々の心
に留めておくためであった。
 そして神がわれわれの創造主であるという事実が、神を礼拝する理由と
して存続するかぎり、安息日は、そのしるし、また記念として、存続す
るのである。安息日がすべての人に守られ、人間の思いと愛情が、崇敬
と礼拝の対象としての創造主に向けられていたならば、偶像礼拝者や無
神論者や不信心者は決してでてこなかったことであろう。安息日を守る
ことは、「天と地と海と水の源とを造られた」真の神に対する忠誠のしる
しである。それゆえに、神を礼拝し神の戒めを守ることを命じるメッセ
ージは、特に第4条の戒めを守るよう人々に呼びかけるのである。

創造主に心を向け、神を崇めることは、安息日を守る ことにつながります。1844年以降、第7日安息日を守る人々が現れました。現在もいくつかの教会として存続しています。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(19)神の律法と第4条。安息日を覚えて聖とせよ。

神の律法を認めそれに従うことは、第4条の戒めにも、それを認め従うことになります。
再臨待望者たちは、安息日が第7日目であることを認め、従うことを決心しました。
律法の第4条は安息日を守ることを命じています。

最初に布告された時と同様に、第4条は、十戒の中心の位置を占めて
いる。

「安息日を覚えて、これを聖とせよ。6日のあいだ働いてあなたの
すべてのわざをせよ。7日目はあなたの神、主の安息であるから、なん
のわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、は
しため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主
は6日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、7日
目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」
(出エジプト 20:8―11)。

神の霊が、これらみ言葉の研究者たちの心に感動を与えた。彼らは、
自分たちが創造主の休みの日を無視して、知らずにこの戒めを犯してい
たことを悟らせられた。彼らは、神が清められた日の代わりに週の第1日
を守るその理由を調べ始めた。彼らは、第4条が廃されたとか、安息日
が変更されたとかいう証拠を、聖書の中に見つけることができなかった。

最初に7日目を聖別した祝福は、取り除かれてはいなかった。彼らは真
心から、神のみこころを知り実行しようとしていた。そして今、彼らは、
自分たちが神の律法の違反者であることを知って、深く悲しんだ。そし
て、神の安息日を清く守ることによって、神への忠誠を表わした。



キリストの仲保と神の律法の永遠性に関する光を受け入れた人々は、
これらが黙示録 14:に示された真理であることを見いだした。この章
のメッセージは、主の再臨のために地上の住民に準備をさせる三重の警
告から成っている。

「神のさばきの時がきた」という告知は、人類の救いのためのキリスト
の務めの最後の働きを指している。それは、救い主のとりなしが終わり、
彼がご自分の民を迎えるために地上に帰られるまで宣布しなければなら
ない真理を伝えるものである。

1844年に始まった審判の働きは、生きている者も死んだ者も、すべ
ての者の運命が決定されるまで継続しなければならない。したがって、
これは、人類の恩恵期間の終わりまで続くのである。人々に審判に立つ
準備をさせるために、メッセージは、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。」
「天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」と彼らに命じてい
る。

これらのメッセージを受け入れる結果は、「ここに、神の戒めを守り、
イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」という言葉で表わ
されている。審判に対する備えをするためには、人は神の律法を守らなけ
ればならない。その律法が、審判の時の品性の規準となるのである。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(18)聖所と神の律法

地上における聖所の中の至聖所には、神の契約の箱がありました。同様に天における至聖所にも、神の契約の箱があることが、黙示録11:9に書かれています。

ということは、神の律法が不変であることの動かぬ証拠です。契約の箱の中には、律法=十戒の書かれた板が入っています。現代に至るまで、神の律法は変わらないということになります。「天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ5:18)と救い主は言っています。


「そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた」
(黙示録 11:19)。神の契約の箱は、聖所の第2の部屋、至聖所に
ある。「天にある聖所のひな型と影」であった地上の幕屋の奉仕において
は、この部屋は、大いなる贖罪の日に聖所の清めのために開かれるだけ
であった。

したがって、天にある聖所が開かれて、契約の箱が見えたという告知は、
1844年に天の至聖所が開かれて、キリストが贖罪の最後の働きをす
るためにそこに入られたことを示している。

至聖所において奉仕を始められた大祭司に、信仰によって従っていった
人々は、彼の契約の箱を見た。彼らは、聖所の問題を研究して、救い主
の奉仕が変わったことを理解するようになっていた。そして彼らは、彼
が今、神の箱の前で務めをなし、ご自分の血によって罪人のために嘆願
しておられるのを見たのであった。

地上の幕屋の箱には、神の律法が刻まれた2枚の石の板が入っていた。
箱は、ただ律法の板の容器にすぎなかったが、神の律法が入っていたた
めに、それに価値と神聖さがあったのであった。天にある神の聖所が開
かれた時、契約の箱が見えた。天の聖所の至聖所の中に、神の律法がた
いせつに安置されている。それは、神ご自身がシナイの雷鳴の中で語り、
ご自分の手で石の板に書かれた律法であった。

天の聖所にある神の律法は、大いなる実体であって、石の板に刻まれ、
モーセによって五書の中に記録された戒めは、その正確な写しである。
この重要な点を理解するに至った人々は、こうして、神の律法の神聖さ
と不変性を知るようになった。彼らは、「天地が滅び行くまでは、律法の
一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」とい
う救い主の言葉の力を、これまでになく悟った(マタイ 5:18)。

 引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年10月13日木曜日

再臨運動の歴史(17)重大厳粛な真理

ノアの洪水のとき、ロトがソドムから救出されたとき、警告が与えられました。警告に従って逃れた人々は、洪水や火から救われました。これらは、現代人への教訓となっているのです。

不信のユダヤ人たちの状態は、キリスト者と称しながら恵み深い大祭司
の働きを故意に知らずにいる、軽率で不信の人々の状態を例示するもの
である。

型としての奉仕において、大祭司が至聖所に入った時、全イスラエルは
聖所のまわりに集まり、罪のゆるしを受けて、会衆の中から絶たれるこ
とがないようにと、この上なく厳粛な態度で、神の前に心を低くしなけ
ればならなかった。

贖罪の日の実体である今日、われわれが、われわれの大祭司の働きを理
解し、どのような義務がわれわれに要求されているかを知ることは、ど
んなにか重要なことであろう。
人間は、神が憐れみのうちにお与えになった警告を拒否して無事では
あり得ない。ノアの時代に天からの使命が世に送られた。そして、彼ら
の救いは、彼らがその使命をどう受けるかにかかっていた。


彼らが警告を拒否したために、神の霊は罪深い人類から退き、彼らは洪
水によって滅びた。アブラハムの時代に、恵みは、ソドムの邪悪な住民
に訴えることをやめた。そして、ロトと彼の妻と2人の娘のほかは、み
な、天から降った火で焼き尽くされた。

キリストの時代でもそうであった。神のみ子は、その時代の不信なユダ
ヤ人に、「おまえたちの家は見捨てられてしまう」と言われた
(マタイ 23:38)。

同じ無限の力のお方は、最後の時代をながめて、「自分らの救となるべ
き真理に対する愛を受けいれなかった」者について、「そこで神は、彼
らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じない
で不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである」と宣言しておられ
る(Ⅱテサロニケ 2:10―12)。

彼らが神の言葉の教えを拒否する時に、神はみ霊を取り去って、彼らを、
彼らが好む惑わしの中に捨てておかれる。しかし、キリストは、なおも、
人類のためにとりなしておられ、求める者には光が与えられる。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(16)天におけるキリストの奉仕は続いている

天におけるキリストの働きは今も続いています。この事実を認め、イエスの仲保の働きに従っていく人々がいます。天におけることがらなので、信仰によって従っていくのです。

聖書の中でユダヤ人がキリストを拒んだのですが、救い主として信じなかったために、天の聖所におけるキリストの働きをも認めることができなかったのでした。

すでに見たように天の聖所の型である地上の聖所の務めにおいては、
贖罪の日に大祭司が聖所の至聖所に入った時に、第1室における務めは
やんだのである。神は、次のように命じられた。「彼が聖所であがない
をするために、はいった時は、・・・・出るまで、だれも会見の幕屋の内に
いてはならない」(レビ 16:17)。

そのように、キリストが、贖罪の最後の務めを行うために至聖所に入ら
れた時、彼は、第1室の務めを終えられた。しかし、第1室の務めが終
わった時に、第2室の務めが始まった。型としての奉仕において、贖罪
の日に大祭司は、聖所を去って、神の前に出て、真に罪を悔いるすべて
のイスラエル人のために罪祭の血をささげた。

そのようにキリストは、仲保者としての働きの一部を終えて、そのみ業
のもう1つの部分を開始され、そして、なお天父の前で、ご自分の血に
よって罪人のために嘆願なさるのであった。


イエスの仲保による祝福にあずかる者は、贖罪の大事業をなさるイエ
スに、信仰によって従っていく人々である。一方、この働きに関する光
を拒む者は、その祝福にあずかることができない。キリストの初臨の時
に与えられた光を拒み、彼を世の救い主として信じなかったユダヤ人た
ちは、彼によるゆるしを受けることができなかった。

イエスが昇天して、ご自分の血によって天の聖所に入り、弟子たちにご
自分の仲保による祝福を注ごうとされた時、ユダヤ人たちは全くの暗黒
の中に取り残されて、彼らの無益な犠牲と供え物を続けたのであった。
型と影の奉仕は終わっていた。これまで人が神に近づいていた扉は、も
はや開かれてはいなかった。

ユダヤ人は、彼を見いだし得る唯一の道、すなわち、天の聖所における
奉仕を通して彼を求めることを、拒んだのであった。したがって彼らは、
神との交わりを見いだすことができなかった。彼らに対して、扉は閉め
られた。彼らは、キリストが真の犠牲であり、神の前の唯一の仲保者で
あることを知らなかった。そのために彼らは、彼の仲保の祝福にあずか
ることができなかった。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(15)婚宴の部屋にはいるもの

1844年のアメリカにおける再臨運動の高まりは、「さあ、花婿だ」という宣言に表されています。再臨待望者たちは、聖書の中に自分たちの経験が預言されている、と理解しました。彼らの経験が、10人の乙女のたとえ話に当てはまる経験だったからです。
1844年の夏の「さあ、花婿だ」という宣言は、多くの者に、主の
再臨はすぐだと期待させた。その指定された時に、花婿は、人々が期待
したように地上にではなくて、婚宴のために、すなわちみ国を受けるた
めに、天の日の老いたる者のもとに来たのである。

「用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやに入り、そして
戸がしめられた。」
彼らは、婚宴の席に列することはできなかった。なぜなら、これは天に
おいて起こり、彼らは地上にいるからである。キリストの弟子たちは、
「主人が婚宴から帰って」くるのを「待って」いなければならない
(ルカ 12:36)。

しかし、彼らは、主の働きをよく理解し、彼が神の前に出られるのに信
仰によって従っていかねばならない。この意味において、彼らは、婚宴
の部屋に入ったと言われているのである。

たとえによると、婚宴の部屋に入ったのは、あかりとともに器に油を
持っていた者たちであった。聖書から真理の知識を得るとともに、聖霊
と神の恵みとを持っていた人々、厳しい試練の夜も、忍耐して待ち、よ
り明らかな光を求めて聖書を研究した人々、

―これらの人々は、天の聖所に関する真理と、救い主の務めの変化とを
認め、信仰によって、天の聖所における彼の働きに従っていった。そし
て、聖書のあかしをとおして同じ真理を受けいれ、キリストが仲保の最
後の働きを行うために、そしてその最後にはみ国を受けるために、神の
前に出られるのに信仰によって従っていく者たちは、すべて、婚宴の部
屋に入るものとして表わされているのである。

マタイ 2 2: のたとえにおいて、同じ婚宴の象徴が用いられ、婚宴
に先だって調査審判が行われることが明示されている。婚宴に先だって、
王は、すべての客が、礼服、すなわち、小羊の血で洗って白くしたしみ
のない品性の衣を着ているかを見るために入ってくる( マタイ 2 2:
11、黙示録 7:14参照)。

欠けていることを発見された者は、追い出されるが、調査の上で礼服を
着ていることが認められたすべての者は、神に受け入れられ、み国に
入って神のみ座のもとに座るに足る者と見なされるのである。品性を調
査し、だれが神の国に入る準備をしたかを決定するこの働きが、調査審
判の働きであり、天の聖所における最後の働きなのである。

調査の働きが終わり、各時代においてキリストに従う者であると称し
てきた人々の調査と決定がなされた時、その時初めて、恩恵期間が終わ
り、恵みの扉が閉じられる。このように、「用意のできていた女たちは、
花婿と一緒に婚宴のへやに入り、そして戸が閉められた」という短い
1節の中に、救い主の最後の務めが終わって、人間の救いの大事業が完
成される時までが、示されている。


引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」CD-ROM福音社版より。段落わけと背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(14)調査審判と婚宴のたとえ

調査審判のことは、婚宴のたとえ話にも描かれています。婚宴のたとえ話はマタイによる福音書25章にある10人の乙女の話です。
1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。
6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。
7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。
9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。
12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。(マタイによる福音書25:1~13)

たとえの中で、婚宴はキリストが御国を受けることを表しています。花婿の到着とは、御国を受けるためにキリストが婚宴の席に到着したこと、を意味します。婚宴の席に到着したキリストは、日の老いたる者=父なる神から御国を賜ることを表しています。
わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。
彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル書7:13,14)

ダニエル 8: 1 4に示されているところの、キリストがわれわれの
大祭司として、聖所を清めるために至聖所に来られるということ、ダニ
エル 7:13に提示されている、人の子が日の老いたる者のもとに来る
ということ、そしてマラキが預言した主がその宮に来られるということ、
これらはみな、同じできごとの描写である。

そして、これはまた、キリストがマタイ25章の10人のおとめのたと
えの中で語られた、婚宴の席への花婿の到着ということによっても表さ
れている。

ダニエル8:14「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」

18 4 4年の夏から秋にかけて、「さあ、花婿だ」という宣言が発せ
られた。その時に、思慮深いおとめたちと思慮の浅いおとめたちによっ
て表されている二種類の人々が現れた。すなわち、主の出現を喜んで待
ち、主に会う準備にいそしんだ人々と、恐怖にかられて衝動的に行動し、
真理の理論だけに満足して、神の恵みに欠けていた人々とであった。

たとえの中では、花婿が来た時に「用意のできていた女たちは、花婿と
一緒に婚宴のへやにはい」った。
ここで示されている、花婿の到着は、婚宴の前に起こる。婚宴は、キリ
ストがみ国をお受けになることを意味している。

み国の首都でありその代表である聖なる都、新エルサレムは、「小羊の
妻なる花嫁」と呼ばれている。天使は、ヨハネに言った。
「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう。」「この御使は、わ
たしを御霊に感じたまま、・・・・連れて行き、聖都エルサレムが・・・・神の
みもとを出て天から下って来るのを見せてくれた」とヨハネは言ってい
る(黙示録21:9、10)。

したがって、明らかに、花嫁は聖都を表し、花婿を迎えに出るおとめた
ちは、教会の象徴である。黙示録によれば、神の民は、婚宴に招かれた
客であると言われている(黙示録 19:9参照)。もし彼らが客であれ
ば、花嫁をも代表することはできない。


キリストは、預言者ダニエルが言っているように、天の日の老いたる者
から、「主権と光栄と国」とを賜るのである。彼は、「夫のために着飾っ
た花嫁のように用意をととのえ」たみ国の首都、新しいエルサレムをお
受けになる(ダニエル 7:14、黙示録 21:2)。

み国を受けたのちに、彼はご自分の民を救うために、王の王、主の主と
して栄光のうちに来られる。そして彼らは、天国で「アブラハム、イサ
ク、ヤコブと共に宴会の席に」つき、小羊の婚宴にあずかるのである
(マタイ 8:11、ルカ 22:30参照)。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年10月12日水曜日

再臨運動の歴史(13)主に会う準備

1844年当時、再臨を待ち望む人々は、再臨を伝えるメッセージを伝えましたが、主キリストに会う準備ができていなかった、とされています。再臨待望者は「彼らの着物は汚れがなく、彼らの品性は、血をそそがれて罪から清まっていなければならない。」と記されています。

しかし、人々は、まだ主に会う準備ができていなかった。まだ、彼ら
のためになされねばならぬ準備の働きがあった。彼らは、まず光を受
けて、天にある神の宮に心を向けねばならなかった。


預言者は語っている。「その来る日には、だれが耐え得よう。そのあ
らわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のよ
うであり、布さらしの灰汁(あく)のようである。彼は銀をふきわけ
て清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを
清める。そして彼らは義をもって、ささげ物を主にささげる」
(マラキ 3:2、3)


天の聖所におけるキリストのとりなしがやむ時地上に住んでいる人々
は、聖なる神の前で、仲保者なしに立たなければならない。彼らの着
物は汚れがなく、彼らの品性は、血をそそがれて罪から清まっていな
ければならない。キリストの恵みと、彼ら自身の熱心な努力とによっ
て、彼らは悪との戦いの勝利者とならなければならない。

天で調査審判が行われ、悔い改めた罪人の罪が聖所から除かれている
その間に、地上の神の民の間では、清めの特別な働き、すなわち罪の
除去が行われなければならない。この働きは、黙示録 14:の使命の
中にさらに明瞭に示されている。


引用文はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘 」CD-ROM福音社より引用。
段落わけと背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(12)調査審判の開始

エルサレムを建て直せとの命令が出てから2300年後、即ち1844年に、聖所が清められるとは、調査審判が始まったことを意味します。以下の引用文には、調査審判の根拠となる聖書の言葉が解説されています。

「2300の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい
状態に復する」というダニエル 8:14の預言と、
「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである」
という第1天使の使命とは、ともに、至聖所におけるキリストの務め、
すなわち調査審判をさすもので、神の民の救いと悪人の絶滅のために
キリストが来られることをさすものではなかった。


キリストは、彼らが期待していた地上にではなくて、型において予表
されていたように、天にある神の宮の至聖所に来られたのであった。
預言者ダニエルは、キリストはこの時、日の老いたる者のもとに来る
と表現している。

「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者
が、天の雲に乗ってきて、」地上ではなくて、「日の老いたる者のも
とに来ると、その前に導かれた」(ダニエル 7:13)。

この来られることについては預言者マラキも預言している。
「あなたがたが求める所の主は、たちまち〔突然・英語訳〕その宮に
来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言わ
れる」(マラキ 3:1)。


日の老いたる者とは、父なる神。
人の子のような者は、キリストのこと。


引用文はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘 」CD-ROM福音社より引用。
段落わけと背景色は投稿者による。

2011年10月11日火曜日

再臨運動の歴史(11)贖いの最後の働き、調査審判

聖所を清めるために、キリストは至聖所にはいられたのですが、まず調査審判がおこなわれなければなりません。調査審判とは、だれが贖いの恵みを受けるにふさわしいかを決めることです。記録の書には、その人の善行、悪い行いなどすべての行いが記録されているのです。ですから、至聖所におけるキリストの働きが行なわれている今は、非常に厳粛な時代といえるのです。

1800年にわたって、聖所の第1の部屋において、この務めが続け
られた。キリストの血は、悔い改めた信者のために嘆願し、彼らがゆる
され天父に受け入れられるようにしてきたが、しかし彼らの罪は、まだ
記録の書に残っていた。型としての儀式において、1年の終わりに贖罪
の働きがあったように、人類の贖いのためのキリストの働きが終わる前
に、聖所から罪を取り除く贖罪の働きが行われるのである。

これが、2300日が終了した時に始まった務めであった。その時に、
預言者ダニエルが預言したとおり、われわれの大祭司は、彼の厳粛な働
きの最後の部分を行うために、すなわち聖所を清めるために、至聖所に
入られたのであった。

古代において、民の罪が、信仰によって罪祭の上におかれ、そしてそ
の血によって、象徴的に地上の聖所に移されたように、新しい契約にお
いては、悔い改めた者の罪は、信仰によってキリストの上におかれ、そ
して実際に天の聖所に移されるのである。


そして、地上の聖所の型としての清めが、それを汚してきた罪を取り除
くことによって成し遂げられたように、天の聖所の実際の清めも、そこ
に記録されている罪を取り除くことによって、すなわち消し去ることに
よって、成し遂げられねばならない。

しかし、これを完成するためには、だれが罪の悔い改めとキリストを信
じる信仰によって、贖いの恵みを受ける資格があるかを決定するために、
記録の書の調査がなされねばならない。したがって、聖所の清めには、
調査の働き、すなわち審判の働きが含まれるのである。この働きは、キ
リストがご自分の民を贖うために来られる前に行われねばならない。な
ぜなら、彼が来られる時には、彼はすべての者に、それぞれの行為に応
じて報いを与えられるからである(黙示録 22:12参照)。

こうして、預言の言葉の光に従った者たちは、キリストは、2300日
が1844年に終了した時に、この地上に来られるのではなくて、再臨
に備えて贖いの最後の働きをするために、天の聖所の至聖所に入られた
のだということを知った。

また、罪祭が犠牲としてのキリストをさし、大祭司が仲保者としての
キリストを表す一方、アザゼルのやぎは罪の張本人であるサタンを象徴
していて、彼の上に、真に悔い改めた者たちの罪が最終的に置かれるの
だ、ということもわかった。大祭司は、罪祭の血によって、聖所から罪
を除去した時に、それをアザゼルのやぎの上においた。キリストが、彼
の務めの最後に、ご自身の血によって、天の聖所からご自分の民の罪を
除去される時、彼はそれをサタンの上におかれる。サタンは、審判の執
行において、最終的な刑罰を負わねばならない。アザゼルのやぎは、人
里離れた地へと追い払われ、イスラエルの宿営には2度と帰って来なか
った。そのように、サタンは、神と神の民の前から永遠に追放される。
そして、罪と罪人の最終的な滅亡の時に消し去られるのである。

引用文はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘 」CD-ROM福音社より引用。
段落わけと背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(10)型と実体

地上の聖所が型で、天の聖所が実体です。
贖罪に関する重要な真理が、型としての儀式によって教えられている。
罪人の代わりに、その身代わりとなるものが受け入れられた。しかし、
犠牲の血によって罪が取り消されたわけではなかった。こうした方法に
よって、罪が聖所に移されたのであった。罪人は、血のささげ物によっ
て、律法の権威を認め、犯した罪を告白し、来たるべき贖い主を信じる
信仰によって許しを願っていることを表明した。

しかし彼は、律法の宣告から全く解放されたのではなかった。大祭司は、
贖罪の日に、会衆からのささげ物をとって、その血をたずさえて至聖所
に入り、律法の真上にある贖罪所の上にそれを注いで、律法の要求を満
たした。それから彼は、仲保者として、罪を自ら負って、聖所から持ち
出した。彼は、アザゼルのやぎの頭に手をおいて、すべての罪を告白し、
こうして、象徴的に、自分からアザゼルのやぎへと罪を移した。それか
やぎは、罪を背負って去り、そして罪は永遠に民から切り離されたも
のと見なされた。


これが、「天にある聖所のひな型と影」に従って行われた儀式であっ
た。そして、地上の聖所の務めにおいて、型として行われたことが、天
の聖所の務めにおいて、現実に行われるのである。われわれの救い主は、
昇天ののち、われわれの大祭司としての働きを始められた。パウロは次
のように言っている。「ところが、キリストは、ほんとうのものの模型に
すぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわ
たしたちのために神のみまえに出て下さったのである」( ヘブル 9 :
24)。

戸口であり、聖所を中庭から区別するものであった「幕の内」におい
て、すなわち、聖所の第1の部屋において1年を通じて行われる祭司の
務めは、キリストが昇天の時に始められた務めを表している。神の前に
罪祭の血をささげ、イスラエルの祈りとともにたちのぼる香をたくこと
が、日ごとの務めにおける祭司の働きであった。


同様にキリストは、罪人のためにご自分の血をもって天父に嘆願なさり、
そのみ前に、ご自身の義の尊い香とともに、悔い改めた信者の祈りを差
し出された。これが、天の聖所の第1の部屋における務めであった。

キリストが弟子たちを離れて昇天された時、弟子たちは、信仰によっ
てここまで彼についていった。ここに彼らの希望は集中した。パウロは
次のように言った。「この望みは、わたしたちにとって、いわば、たまし
いを安全にし不動にする錨であり、かつ『幕の内』にはいり行かせるも
のである。その幕の内に、イエスは、永遠に・・・・大祭司として、わたし
たちのためにさきがけとなって、はいられたのである。」かつ、やぎと子
牛との血によらず、ご自身の血によって、1度だけ聖所に入られそれに
よって永遠のあがないを全うされたのである」(ヘブル 6:19、20、
9:12)。

2011年10月5日水曜日

再臨運動の歴史(9)聖所の清めとはなにか?大いなる贖罪の日

天の聖所が清められるとは、何を表しているのか?預言研究者たちはさらに聖書の研究を続けました。まず、地上の聖所で何がおこなわれたかを調べる必要があります。

地上の聖所では、罪をおかした人が犠牲の動物に手を置き、罪を告白します。それから、自らの手で犠牲の動物を殺します。すると、祭司は祭壇や聖所の垂れ幕に、その血を注ぎます。こうして、その人の罪は赦されるのです。正確には、罪は聖所に移されるのです。

旧約聖書のレビ記には、聖所における祭司の務めが詳細に書かれています。一度読んだくらいでは、理解できないほど詳しいです。しかし、人の罪を赦す手順は明快で、神様の偉大な知恵が感じられます。

この罪の赦しと罪からの清めを、段階的に解き明かしていますので、以下に引用します。

毎日、悔い改めた罪人が幕屋の入り口に供え物を持って来て、手を犠牲の
頭において自分の罪を告白し、こうして自分の罪を象徴的に自分自身から
罪のない犠牲へと移した。それから動物はほふられた。
「血を流すことなしには」罪のゆるしはあり得ない、と使徒は言っている。
「肉の命は血にあるからである」(レビ 17:11)。
破られた神の律法は、罪人の生命を要求した。
罪人の失われた生命を表す血、すなわち犠牲が彼の罪を負って流したも
のが、祭司によって聖所の中に運ばれ、幕の前に注がれた。幕の後ろに
は、罪人が犯したその律法を入れた箱があった。この儀式において、罪
は、血によって、象徴的に聖所に移された。

このようにして、毎日、罪人は犠牲の動物を殺し、その血が聖所に注がれることによって、罪が聖所に移されました。聖所は罪で満ちています。
つぎに、1年に一度、大祭司が至聖所にはいり、聖所の罪を清めることを行ないます。

こうした務めが毎日、1年中を通じて行われた。イスラエルの罪がこ
うして聖所に移され、そして、それを取り除くために特別の務めが必要
であった。そこで、神は、聖所の各部屋のために贖いをすることをお命
じになった。

「イスラエルの人々の汚れと、そのとが、すなわち、彼らのもろもろの
罪のゆえに、聖所のためにあがないをしなければならない。
また彼らの汚れのうちに、彼らと共にある会見の幕屋のためにも、その
ようにしなければならない。」また、贖罪は、祭壇にも行われるべきで、
「イスラエルの人々の汚れを除いてこれを清くし、聖別しなければなら
ない」(レビ 16:16、19)。

1年に1度、大いなる贖罪の日に、大祭司は聖所を清めるために至聖
所に入った。そこで行われた務めによって、1年間の務めが完了した。
贖罪の日に、2頭のやぎが幕屋の入り口に連れてこられ、くじが引かれ
た。「1つのくじは主のため、1つのくじはアザゼルのため」( 同 16:
8)。主のためのくじに当たったやぎは、民のための罪祭としてほふられ
た。そして、大祭司は、その血を幕の中に携えていき、贖罪所の上と贖
罪所の前に注がなければならなかった。血は、幕の前の香壇にも注がな
ければならなかった。

「そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエ
ルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろも
ろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の
手によって、これを荒野に送らなければならない。こうしてやぎは彼ら
のもろもろの悪をになって、人里離れた地に行くであろう」(同 16:
21、22)。アザゼルのやぎは、もはやイスラエルの宿営に帰っては来
なかった。そして、やぎを連れ出した人々は、宿営に帰る前に、水で身
をすすぎ、衣服を洗わなければならなかった。

この儀式全体は、神が聖であられて、罪をいみきらわれることを、イ
スラエルの人々に深く感じさせるよう意図されていた。そして、さらに、
罪に触れるならば必ず汚れることを、彼らに示すものであった。贖罪の
業が進行している間、すべての者は、身を悩まさなければならなかった。

仕事をすべてやめて、イスラエルの全会衆は、厳粛に神の前にへりくだ
り、祈り、断食し、心を深く探って1日を過ごさなければならなかった。

贖罪(しょくざい)の業、即ち聖所の清めが行なわれている間、イスラエルのすべての者は身を悩まさなければならなかった。身を悩ますとは、神の前に出て心を探り、すべての罪の告白をしただろうか?告白していない罪はないだろうか?と身を悩ます、即ち心を深く探って、心を悩ますという意味です。

(引用文はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」福音社 CD-ROMより。背景色、段落は投稿者による。)

再臨運動の歴史(8)聖所の清めとはなにか?

キリストの再臨を待望していた人々は、さらに聖書を研究し、聖所とはなにか?はっきりと解答が与えられているのを確認します。

引用が長いのですが、聖所の清めとは、人の「罪を取り除く」ことだ!とわかってきます。
キリストが再臨するとき、生きている信者は生きたまま天に上げられます。しかし、罪を持ったまま天国に行くことはできません。天国は罪のないところだからです。

聖所とは何かという質問に対して、聖書ははっきりと解答を与えてい
る。聖書に用いられている「聖所」という言葉は、まず第1に、天にあ
るもののひな型としてモーセが建てた幕屋をさし、そして第2に、地上
の聖所が指し示していたところの、天にある「真の幕屋をさしている。
キリストの死によって、型としての奉仕は終わった。

天にある「真の幕屋」は、新しい契約の聖所である。そして、ダニエル
 8:14の預言は、この時代に成就されるのであるから、ここで言う聖
所は、新しい契約の聖所であるに違いない。2300日が1844年に
終結した時に、この地上には幾世紀もの間、聖所はなかった。こうして、
「2300の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状
態に復する」という預言は、疑いもなく天の聖所をさすのである。

しかし、聖所の清めとは何かという、最も重要な問題が、未解決のま
ま残っている。地上の聖所に関連してこうした儀式があったことは、旧
約聖書に記されている。

しかし、天において、清められねばならないものが、あるのであろうか。
ヘブル人への手紙9章には、地上と天の両方の聖所の清めが明らかに教
えられている。「こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血に
よってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあ
り得ない。このように、天にあるもののひな型は、これらのもの〔動物
の血〕できよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更に
すぐれたいけにえで、きよめられねばならない

(ヘブル 9:22、23)。
それは、キリストの尊い血である。


この清めは、型としての儀式においても実際の儀式においても、血に
よって成し遂げられなければならない。前者は、動物の血によって行わ
れ、後者は、キリストの血によって行われる。パウロは、なぜこの清め
が血によって行われねばならないかということの理由として、血を流す
ことなしには、罪のゆるしがないからであると述べている。

ゆるし、すなわち罪の除去という働きが、成し遂げられなければならな
い。しかし、罪は、天や地上の聖所とどのような関係にあるのであろう
か。このことは、象徴的儀式を調べることによって学ぶことができる。
なぜなら、地上で奉仕した祭司は、「天にある聖所のひな型と影とに」
仕えていたからである(ヘブル 8:5)

2011年9月26日月曜日

再臨運動の歴史(7)天の聖所でのキリストの働き

聖所が天にも、あることがわかりました。地上の聖所を調べれば、天の聖所のことも理解できるはずです。

キリストは天の聖所で、大祭司として仕えておられることがわかりました。パウロはへブル人への手紙で、天の聖所におけるキリストの働きを明らかにしています。初代教会において、イエス・キリストが天の聖所で仕えておられることを、パウロや弟子たちが理解していたことは重要です。即ち、イエス・キリストの働きは、十字架で終わったのではないことが
わかるからです。

研究しているうちに、次のようなことが解った。すなわち、モーセが
神の命令によって、山の上で示された型にしたがって作った地上の聖所
は、「今の時代に対する比喩」で、そこで「供え物といけにえ」とがさ
さげられたこと、

またその2つの聖なる部屋は、「天にあるもののひな型」で、大祭司キ
リストは、「人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕
えておられる」ということ、

「キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所
にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみま
えに出て下さったのである」ということだった。
(ヘブル 9:9、23、8:2、9:24)

上記の元になった聖書の言葉は以下の言葉です。

「このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。」(ヘブル人への手紙8:1,2)

「この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。」(ヘブル人への手紙9:9)

「23 このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。
24 ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。」(ヘブル人への手紙9:23,24)


引用つづき
イエスがわれわれのために奉仕しておられる天の聖所は、尊い原型で、
モーセの建てた聖所は、その写しなのだ。地上の聖所に、聖所と至聖所
2部屋があったように、天の聖所にも2つの部屋がある。神の律法を納め
た箱や香壇やその他奉仕の道具が地上の聖所にあったように、天上の聖所
にも、これと対になるものがある。

聖なる異象を通して、天へ入ることをゆるされた使徒ヨハネは、そこに燈
台と香壇を見、また、神の聖所が開けた時に「契約の箱」を見た。
(黙示録 4:5、8:3、11:19)

2300の朝夕が終った1844年には、この地上にはもう幾世紀も
の間聖所がなかった。したがって「2300の夕と朝の間である。そし
て聖所は清められてその正しい状態に復する」との宣言の中にみられる
聖所は、天の聖所にちがいない。



こうして、預言の研究者たちは、地上の聖所と天の聖所との関係をはっきりと理解したのでした。聖所が清められる、とはこの地球ではなく、天の聖所が清められることだ、と結論したのです。

つぎは、天の聖所が清められる、とはどのようなことを指しているのか?を、研究せねばなりません。

(引用文は「生き残るひとびと」エレン・G・ホワイト著作選集CD-ROM 福音社版よりの引用、段落と背景色は投稿者による。)

2011年9月21日水曜日

再臨運動の歴史(6)聖所は天にもある!

聖所が天にもある!ことを発見した預言研究者たちが注目したのは、次の聖書の言葉でした。

「さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。」(ヘブル人への手紙9:1)


前文略
これが地上に存在した唯一の聖所で、聖書が記録しているものである。
パウロはこれを、初めの契約の聖所と言った。しかし、新しい契約に、
聖所はないのであろうか。
真理の探究者たちは、再びヘブル人への手紙にもどって、第2の、す
なわち新しい契約の聖所の存在が、すでに引用した「初めの契約にも
礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった」というパウ
ロの言葉に暗示されていることを発見した。

初めの契約「にも」と聖書に書いてあるのだから、新しい契約にも聖所があるのではないか?と、預言研究者たちは考えました。


そして、「も」という言葉が用いられていることは、パウロが前にこの聖
所について述べたということを暗示している。彼らは、その前の章にも
どって、次のところを読んだ。

「以上述べたことの要点は、このような祭司がわたしたちのためにおら
れ、天にあって大能者の御座の右に座し、人間によらず主によって設けら
れた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである」
(ヘブル 8:1、2)。

ここに、新しい契約の聖所が明らかにされている。初めの契約の聖所
は、人によって張られ、モーセによって建てられたが、これは、人間に
よらず主によって張られている。初めの聖所では、地上の祭司たちが務
めを行ったが、こちらの聖所では、われわれの大祭司、キリストが、神
の右で仕えておられる。一方の聖所は地上にあったが、もう一方は天に
あるのである。



聖書に天の聖所について、はっきりと書かれているのが、預言研究者たちに理解できたのです。天に聖所があり、キリストが天の聖所で働きをしていることがわかったのです。
かれらは天の聖所でキリストが何をしておられるのか?さらに研究を続けました。

(引用文は「各時代の大争闘」エレン・G・ホワイト著作選集CD-ROM 福音社版よりの引用、段落と背景色は投稿者による。)

2011年9月18日日曜日

再臨運動の歴史(5)失望を乗り越えて

キリストの再臨を待ち望んでいた人々は、失望しました。1844年にキリストは再臨しなかったからです。しかし、預言の計算方法は間違っていなかった、と確信した人々がいました。さらに、研究を進めた結果、この地球が聖所であるという考えは、聖書のどこにもない、ということを発見しました。

研究の結果、彼らは、地上が聖所であるという一般の見解を支持する
証拠が、聖書にないことを知った。しかし、聖書には、聖所とその本質、
場所、奉仕などの問題が十分に説明されているのを彼らは見いだした。

このことについての聖書記者たちの証言は、疑問の余地がないほど明瞭
で十分なものであった。使徒パウロは、ヘブル人への手紙の中で、次の
ように言っている。

「さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖
とがあった。すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台
(しょくだい)と机と供えのパンとが置かれていた。

これが、聖所と呼ばれた。また第2の幕の後に、別の場所があり、それ
至聖所と呼ばれた。そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱
とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したア
ロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケル
ビムがあって、贖罪所(しょくざいしょ)をおおっていた」
(ヘブル 9:1―5)。

聖所の目的や利用法は旧約聖書に詳しく書かれています。そして、新約聖書でも上記のように確認されています。再臨の研究者たちは、聖所についてさらに聖書を研究し、聖所が天にもあることを発見します。

引用は「各時代の大争闘」福音社版CD-ROMからの引用です。(段落や背景色は投稿者による)

2011年9月15日木曜日

再臨運動の歴史(4) 2300年後の1844年にキリストの再臨がある

2300年の後にキリストの再臨がある!預言の年代を計算すると、2300年後は1844年にあたります。計算方法は間違いないと聖書研究者ウイリアム・ミラーは確信しました。聖書の預言は過去において正確に当たっていたから、これからも正確に当たるはずです。

「エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひと
りの君が来るまで、7週と62週ある」
―すなわち、69週、つまり483年ある。アルタシャスタ王の
勅令は、紀元前457年の秋に実施された。その時から483年
がたつと、紀元27年の秋になる。

その時、この預言は成就した。
「メシヤ」とは、「油を注がれた者」という意味である。キリス
トは、紀元27年の秋、ヨハネからバプテスマを受け、聖霊の油
を注がれた。
エルサレムを建て直せという命令は、エズラ記7章に記されている。紀元前457年に、ペルシャ王アルタシャスタによって、最も完全な形で発布された。この年代が預言の計算のスタートになるのです。
メシアなる君とはキリストのことで、紀元27年にキリストは宣教を開始しました。


「彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう」
紀元31年、われわれの救い主は、そのバプテスマから3年半の
後に十字架にかかられた。カルバリーにおいてささげられた大い
なる犠牲によって、4000年の間神の小羊を指し示してきた
牲制度は終わった。型は実体と出会い、儀式的な制度のあらゆる
犠牲と供え物は、そこで終わるのであった。

ユダヤ人のために特に定められた70週、すなわち490年は、
これまで見てきたように、紀元34年で終わった。

その週の半ば=3年半の後、キリストは十字架に掛けられました。「犠牲と供え物とを廃する」とは、十字架の死によって、キリストは自ら犠牲となったことで、これまでの犠牲制度は終わったという意味。犠牲としてささげられた子羊は、キリストを表していたのでした。

ユダヤ人のために定められた70週が終わると、その後、福音はユダヤ人以外の異邦人に伝えられるようになります。

ユダヤ国民は、その時、サンヒドリンの決議によって、ステパノ
を殉教させ、そしてキリストの弟子たちを迫害することにより、
福音の拒否を決定的なものにしてしまった。それ以後、救いのメ
ッセージは、もはや選民に限られることなく、全世界に伝えられ
た。迫害のためにエルサレムを逃げなければならなくなった弟子
たちは、
「御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。」「ピリポはサマリヤ
の町に下って行き、人々にキリストを宣べはじめた。」ペテロは、
神に導かれて、カイザリヤの百卒長、神を敬うコルネリオに福音
を伝えた。また、キリストに対する信仰へと導かれた熱心なパウ
ロは、「遠く異邦の民へ」福音を伝える任命を受けた
(使徒行伝 8:4、5、22:21)。

ここまでの預言が成就したのだから、あとの預言も成就するはずです。1844年も成就するはずでした。

ここまで、預言に指示されたことはみな、驚くばかりに成就した。
そして70週が紀元前457年に始まり、紀元34年に終わるこ
とが、疑いの余地なく確定した。この年代から2300日の終わ
りを見いだすことは、難しいことではない。70週、すなわち
490日が2300日から切り取られると、あとに1810日が
残る。490日が終わったあとで、1810日もまた成就するは
ずであった。紀元34年から1810年たてば、1844年にな
る。

この大いなる預言の期間が終わったところで、「聖所は清め
られる」と神の天使はあかししたのである。こうして、聖所の清
め―それはキリストの再臨の時に起こるものと、ほとんどすべて
の人が信じていた―の時が、はっきりと指示された。

「聖所は清められる」という預言を、当時の人はキリストの再臨と信じていました。この地上が聖所であるという、当時の考え方を、当然のこととして受け入れていたからです。キリストが来られて、この地球を清めるのだ、と考えていたのです。


預言の年代(画像をクリックすると拡大画像が開きます)

(引用は「各時代の大争闘」福音社E.G.White著作選集CD-ROMより、段落の改行や背景色は投稿者による)

2011年9月12日月曜日

再臨運動の歴史(3)ダニエル書の2300の夕と朝、聖所が清められる

ウイリアム・ミラーはダニエル書の預言の研究によって、キリストの再臨の時を計算しました。旧約聖書ダニエル書の「2300の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」という預言は、2300日を経ると聖所が清められるという意味にとれます。

聖書の預言では1日を1年と数えることから、2300年経つと聖所が清められると解釈されます。そこで、ある時から始まって2300年経てば、聖所が清められるとの結論に達したのです。ウイリアム・ミラーは、聖所はこの地球を指すと理解していました。この理解は後で間違いとわかるのですが、この当時は普通に信じられていたのです。

キリストの再臨の時を最も明らかに示していると思われる預言
は、ダニエル 8:14の「2300の夕と朝の間である。そ
して聖所は清められてその正しい状態に復する」という預言で
あった。ミラーは、聖書を聖書自身の注解書とするという彼の
規則に従って、象徴的預言においては、1日が1年を表わすこ
とを知った(民数記 14:34、エゼキエル4:6)。
彼は、預言の2300日は字義的には2300年であって、ユダ
ヤ時代の終結する時をはるかに越えているから、その時代の聖所
を指すものではないということを悟った。ミラーは、キリスト教
時代においては、地上が聖所であるという一般の見解を受け入れ
た。

そこで彼は、ダニエル 8:14に預言されている聖所の清めとは、
キリストの再臨の時に、地上が火で清められることであると理
解した。したがって、2300日の正確な起算点を発見すること
ができれば、キリスト再臨の時は容易に確かめることができる
と、彼は結論した。

ここで言われている旧約聖書のダニエル8:14とは以下のような文脈です。もっと前の節から幻が続くのですが、略します。その意味内容は、
「その角」で表される高ぶる者が聖所を倒し、真理を投げ討ったという描写であることが、ここから理解できます。高ぶる者=ローマ教会であり、歴史上では法王至上権時代が1260年続き、その後で、聖所が清められる、という順序になります。
11 またみずから高ぶって、その衆群の主に敵し、その常供の燔祭を取り除き、かつその聖所を倒した。
12 そしてその衆群は、罪によって、常供の燔祭と共に、これにわたされた。その角はまた真理を地に投げうち、ほしいままにふるまって、みずから栄えた。
13 それから、わたしはひとりの聖者の語っているのを聞いた。またひとりの聖者があって、その語っている聖者にむかって言った、「常供の燔祭と、荒すことをなす罪と、聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられることについて、幻にあらわれたことは、いつまでだろうか」と。
14 彼は言った、「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」。
(旧約聖書ダニエル書8:11から8:14)

1260年の期間はダニエル書7:25から算出されます。「彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。」
「ひと時と、ふた時と、半時」=3年半=360日×3.5=1260日=1260年という計算です。

聖所とは、ひとの罪を贖う(あがなう)ために、神がモーセに型を示して造らせたものです。はじめは移動式の幕屋、やがてソロモンの神殿に代わり、紀元70年にエルサレムがローマに滅ぼされるまで存在しました。


引用文は「各時代の大争闘」エレン・G・White著からの引用です。(福音社 エレン・G・ホワイト著作選集CD-ROMより)(背景色、段落、注は投稿者による)

2011年9月6日火曜日

再臨運動の歴史(2)リバイバルと反対

イエス・キリストの再臨を説いた人々に呼応して、大宗教リバイバルが起こりました。しかし、一方では大反対が起こりました。再臨の預言の解き明かしを聞いた人々は、二派に分かれました。再臨を真理と認めて受け入れる人々と、受け入れず反対した人々に分かれたのです。

リバイバルの描写です。
世人に対しても教会人に対しても、来たるべき神の怒りからのがれる
ようにと、罪人に警告する鋭い証言が、至る所で聞かれた。キリストの
先駆者だったバプテスマのヨハネのように、説教者は、木の根元におの
を置いて、悔い改めにふさわしい実を結ぶように皆に警告した。彼らの
感動的な訴えは、一般の教会の講壇から聞こえる平和と安全の保証と、
著しい対照を示していた。そして、この使命の叫ばれる所では、どこで
も人々の心が動かされた。

罪人は泣きながら「救われるにはどうしたらよいか」とたずねた。不
正直な生活を送っていた人々は、一生懸命にその償いをしようとした。
キリストと和らいだ者はだれでも、他の人々も同じ祝福を受けるように
と望んだ。親たちの心は子供たちに向けられ、子供たちの心は親たちに
向けられた。高慢や自我の殻は打ち破られた。真心からの告白がなされ、
家族の者たちは、最も近い、最も親しい家族の者の救いのために骨折った。

あらゆる階級の人々が再臨信徒の集会にむらがり集まった。金持も貧乏
人も、身分の高い者も卑しい者も、いろいろな理由から、自分のために
再臨の教えを一生懸命に聞いた。神の僕(しもべ)たちが信仰の理由を
説いている間、神は反対の精神を阻止したもうた。時には器が弱い場合
もあった。しかし神の霊が真理に力を与えた。そうした集会では、聖天
使たちの臨在が感じられ、毎日多くの者が信者の群れに加わった。キリ
ストがまもなく来たりたもう証拠が繰り返されると、大群衆は息をの
んでそうした厳粛な言葉に聞き入った。

反対派の反対理由と心情です。
キリスト再臨の時期をはっきり定めて宣伝したことで、講壇の
牧師から天を侮る無思慮な罪人にいたるまで、あらゆる階級の
多くの人々から大反対が起った。
その日その時が、あなたがたにはわからないからである
という声が、偽善的な牧師の口からも大胆な嘲笑(ちょうしょ
う) 者の口からも聞かれた。彼らは、宣伝者たちが預言の期間
の終結をさし示し、再臨の兆としてキリストご自身があらかじ
め告げたもうたことをさし示して、聖句をはっきりと矛盾なく
説明するのに耳を閉じた。(注:聖句=聖書の言葉)

救い主を愛することを告白している人々の多くは、キリスト再
臨の教えに反対はしないが、ただその時期をはっきり定めるこ
とに反対なのだと宣言した。
すべてを見たもう神の目は、彼らの心を読みたもうた。彼らは
キリストが義をもって、世を裁くためにこられるのを聞くこと
を望まないのだ。彼らは不忠実な僕(しもべ)だった。彼らの
僕は、心をさぐりたもう神の吟味に耐えられないのだ。彼らは
神に会うことをおそれたのだ。

キリストが初めて来たりたもうた時代のユダヤ人のように、彼
らはイエスを迎える準備ができていないのだ。キリストの民で
あると告白している人々が、すこしもキリストを愛する心がな
く、キリストの現れたもうのを望んでいないので、サタンと悪
天使たちはこおどりして喜び、キリストと聖天使たちに嘲笑
(ちょうしょう) を浴びせた。

ユダヤ人がキリストの初臨 first comingを理解せず、キリスト・イエスに反対したことは一般には案外認識されていません。しかし、聖書にはユダヤの宗教指導者たちがキリスト・イエスに対して執拗に反対し、イエスを悩ませたことが書かれています。

上記引用文を読むと、聖天使、サタンと悪天使の存在が書かれています。人間の歴史の背景には、キリストと聖天使、サタンと悪天使が働いています。信じがたいことのようですが、聖書はそれらの存在を記しています。
エレン・G・ホワイトは「キリストと聖天使、サタンと悪天使の大争闘」という歴史観によって同名の著作を残しています。

上記の引用はE.G.White著、「生き残る人々」(原題:The Story of Redemption) からの引用です。エレン・G・ホワイト著作選集CD-ROM 福音社より(注、背景色、段落の改行は投稿者による)「生き残る人々」は絶版ですが、「贖いの歴史」と題してサンライズミニストリーから出版されています。

2011年9月2日金曜日

再臨運動の歴史(1)アメリカで始まった再臨運動

聖書における再臨(さいりん)second comingとは、イエス・キリストが再びこの地球に来られることをいいます。はじめに地球上にイエスが誕生したのを、初臨(しょりん)first comingといいます。

再臨運動の歴史は1800年代にアメリカで始まりましたが、あいついで世界各国で同様の運動がおこったとされています。

再臨運動の歴史をエレン・G・ホワイトの著作からみていきます。
エレン・G・ホワイトはアメリカの再臨運動の真っ最中に若い時を過ごしました。やがて多くの著作によって人々に神とキリストの真の姿を示し、キリストの再臨に備えをして、滅ぶことなく生きることができるようにと訴えています。

黙示録の1 4章に紹介されている第一天使の使命についての預言は、
1840年から1844年の再臨運動にその成就をみた。ヨーロッパで
もアメリカでも、信仰と祈りの人々は、この預言に注意をよび起されて、
深く心を動かされた。彼らは霊感の書を調べてみて、万物の終りが近づ
いていることを確信させられる証拠を見出した。神の霊は、警告を与え
るように僕たちをうながしたもうた。(注:霊感の書=聖書)
「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである」
という永遠の福音の使命は、遠く、広く、広がっていった。(黙示録 14:7) 
キリストが速やかに来たりたもうという喜ばしいおとずれは、宣教師
の進出して行ったいたる所に伝えられた。あちらこちらの国々に、孤立
したキリスト信者の群れが見出された。彼らは、ただ聖書を研究しただ
けで、救い主の再臨が近いという信念に到達していた。ヨーロッパのあ
る地方では、再臨の教えを宣伝することが、圧制的な法律によって禁じ
られていたので、幼い子供たちが使命を叫ぶようになり、多くの人々が
厳粛な警告に聞き入った。 
アメリカでは、ウィリアム・ミラーとその共労者に、使命宣伝の働き
が与えられた。彼らの働きによって点じられた火は、遠い国々にまで光
を放った。神は天使を送って、それまで聖書を信じていなかった一農夫
の心を動かし、預言を調べさせたもうたのだ。神の天使たちは、この選
ばれたミラーのもとを幾度もおとずれて、その考えを導き、それまで神
の民に全然解らなかった預言を悟らせた。真理の鎖の糸口が与えられた
ミラーは、その鎖を一環ずつさぐって行って、ついに驚異と賛美の念を
もって神のみ言葉を仰ぎ見るようになった。彼はそこに完全な真理の鎖
を見出したのだ。これまで霊感を受けたものではないと思っていた聖書
が、こんどは、美しく栄光に輝いて見えるようになった。

聖書の一部分は、他の部分を説明していることが解った。1つの聖句が
彼の理解をさまたげていると、他の聖句にその説明が見出された。彼は、
喜びと最も深い尊敬とおそれとをもって、聖書をながめるようになった。

アメリカの再臨運動はウィリアム・ミラーの知的な聖書研究によって始まったのでした。ミラーは農夫でしたが、聖書の研究に打ち込んだ結果、キリストの再臨が近いとの結論に達しました。
<聖書が聖書を解釈する> という研究方法は非常に知的な研究法です。印象や言い伝え、哲学、神学などの見解にとらわれず、聖書と語句事典(コンコーダンス:聖書の語句の索引)のみを使って聖書の終末の預言を研究したのです。


上記の引用はE.G.White著、「生き残る人々」(原題:The Story of Redemption) からの引用です。エレン・G・ホワイト著作選集CD-ROM 福音社より(注、背景色、段落の改行は投稿者による)

「生き残る人々」は絶版ですが、サンライズミニストリーから「贖いの歴史」と題して出版されています。

2011年8月25日木曜日

「終末の音」これはなんだ?

世界のあちこちで「終末の音」と呼ばれる音が、きこえているらしいです。
http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/others/p1fb225db098d2582cc23a30ee85f27dd
聞いてみましたが、雑音でしかありません。神様はこのような雑音を、天使に奏でさせるとは考えられません。神はつぎのような方だとE・G・Whiteが記しています。(キリストへの道より、福音社 エレン・G・ホワイト著作選集 CD-ROMより転載)

もし、「終末の音」がこれから先も聞こえてくるなら、悪魔のしわざで、人々を惑わすために行なうものかもしれません。

は天にも地にも、数えきれぬほどの愛のしるしをまき散らし
て、私どもの心をご自分に結びつけたまいました。自然界のい
ろいろのもの、または人の心が感じることのできる深い優しい
地上の絆によって、神は私どもに神ご自身を示そうとなさいま
した。

しかし、これらは神の愛のただ一部を示すにすぎません。この
ような証拠が与えられているにもかかわらず、善の敵である
は人の心をくらまし、神を恐ろしいもののように見せかけ、
残酷で人を決してゆるさない者、きびしい裁判官か強欲な金貸
しのように、厳として動かぬ者のように思わせています。また
創造主をつねに人類のあやまちを拾い上げて厳罰に処している
者のように思わせています。イエスが人類の間に住みたもうた
のは、この暗いかげを取り除いて神の限りない愛を示すためで
ありました。

神のみ子が天より来たりたもうたのは、天の父をあらわすため
でありました。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父の
ふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのであ
る」(ヨハネ 1:18 )。 


「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。」コリント14:33

文字の背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(36)真理は反対を引き起こす

なぜ、真理は反対を引き起こすのでしょうか? 真理に従うことは、犠牲を要求されるからです。 耳ざわりのよい言葉のみを聴いているなら、反対は起こらないわけです。 聖書の預言を信じる人はほんのわずか。しかも、神の戒めに従おうとする者は非難される。 だから、「ここに...