贖罪に関する重要な真理が、型としての儀式によって教えられている。
罪人の代わりに、その身代わりとなるものが受け入れられた。しかし、
犠牲の血によって罪が取り消されたわけではなかった。こうした方法に
よって、罪が聖所に移されたのであった。罪人は、血のささげ物によっ
て、律法の権威を認め、犯した罪を告白し、来たるべき贖い主を信じる
信仰によって許しを願っていることを表明した。
しかし彼は、律法の宣告から全く解放されたのではなかった。大祭司は、
贖罪の日に、会衆からのささげ物をとって、その血をたずさえて至聖所
に入り、律法の真上にある贖罪所の上にそれを注いで、律法の要求を満
たした。それから彼は、仲保者として、罪を自ら負って、聖所から持ち
出した。彼は、アザゼルのやぎの頭に手をおいて、すべての罪を告白し、
こうして、象徴的に、自分からアザゼルのやぎへと罪を移した。それか
らやぎは、罪を背負って去り、そして罪は永遠に民から切り離されたも
のと見なされた。
これが、「天にある聖所のひな型と影」に従って行われた儀式であっ
た。そして、地上の聖所の務めにおいて、型として行われたことが、天
の聖所の務めにおいて、現実に行われるのである。われわれの救い主は、
昇天ののち、われわれの大祭司としての働きを始められた。パウロは次
のように言っている。「ところが、キリストは、ほんとうのものの模型に
すぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわ
たしたちのために神のみまえに出て下さったのである」( ヘブル 9 :
24)。
戸口であり、聖所を中庭から区別するものであった「幕の内」におい
て、すなわち、聖所の第1の部屋において1年を通じて行われる祭司の
務めは、キリストが昇天の時に始められた務めを表している。神の前に
罪祭の血をささげ、イスラエルの祈りとともにたちのぼる香をたくこと
が、日ごとの務めにおける祭司の働きであった。
同様にキリストは、罪人のためにご自分の血をもって天父に嘆願なさり、
そのみ前に、ご自身の義の尊い香とともに、悔い改めた信者の祈りを差
し出された。これが、天の聖所の第1の部屋における務めであった。
キリストが弟子たちを離れて昇天された時、弟子たちは、信仰によっ
てここまで彼についていった。ここに彼らの希望は集中した。パウロは
次のように言った。「この望みは、わたしたちにとって、いわば、たまし
いを安全にし不動にする錨であり、かつ『幕の内』にはいり行かせるも
のである。その幕の内に、イエスは、永遠に・・・・大祭司として、わたし
たちのためにさきがけとなって、はいられたのである。」かつ、やぎと子
牛との血によらず、ご自身の血によって、1度だけ聖所に入られそれに
よって永遠のあがないを全うされたのである」(ヘブル 6:19、20、
9:12)。
聖書の終末の預言を、聖書とエレン・G・Whiteの著作から引用します。エレン・G・Whiteは聖書を現代人にわかるように解き明かした人と言えます。神、キリスト、サタン、人間の宇宙的な関係が生々しく描かれます。研究するなら終末時代に生きるわれわれ現代人の道しるべとなるのです。
2011年10月11日火曜日
再臨運動の歴史(10)型と実体
地上の聖所が型で、天の聖所が実体です。
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