聖書の中でユダヤ人がキリストを拒んだのですが、救い主として信じなかったために、天の聖所におけるキリストの働きをも認めることができなかったのでした。
すでに見たように天の聖所の型である地上の聖所の務めにおいては、
贖罪の日に大祭司が聖所の至聖所に入った時に、第1室における務めは
やんだのである。神は、次のように命じられた。「彼が聖所であがない
をするために、はいった時は、・・・・出るまで、だれも会見の幕屋の内に
いてはならない」(レビ 16:17)。
そのように、キリストが、贖罪の最後の務めを行うために至聖所に入ら
れた時、彼は、第1室の務めを終えられた。しかし、第1室の務めが終
わった時に、第2室の務めが始まった。型としての奉仕において、贖罪
の日に大祭司は、聖所を去って、神の前に出て、真に罪を悔いるすべて
のイスラエル人のために罪祭の血をささげた。
そのようにキリストは、仲保者としての働きの一部を終えて、そのみ業
のもう1つの部分を開始され、そして、なお天父の前で、ご自分の血に
よって罪人のために嘆願なさるのであった。
イエスの仲保による祝福にあずかる者は、贖罪の大事業をなさるイエ
スに、信仰によって従っていく人々である。一方、この働きに関する光
を拒む者は、その祝福にあずかることができない。キリストの初臨の時
に与えられた光を拒み、彼を世の救い主として信じなかったユダヤ人た
ちは、彼によるゆるしを受けることができなかった。
イエスが昇天して、ご自分の血によって天の聖所に入り、弟子たちにご
自分の仲保による祝福を注ごうとされた時、ユダヤ人たちは全くの暗黒
の中に取り残されて、彼らの無益な犠牲と供え物を続けたのであった。
型と影の奉仕は終わっていた。これまで人が神に近づいていた扉は、も
はや開かれてはいなかった。
ユダヤ人は、彼を見いだし得る唯一の道、すなわち、天の聖所における
奉仕を通して彼を求めることを、拒んだのであった。したがって彼らは、
神との交わりを見いだすことができなかった。彼らに対して、扉は閉め
られた。彼らは、キリストが真の犠牲であり、神の前の唯一の仲保者で
あることを知らなかった。そのために彼らは、彼の仲保の祝福にあずか
ることができなかった。
引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。
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