安息日を守ることが示されると、日曜日を守るのが一般的だ、という議論が起こりました。今でもそうでしょう。今、声を大にして、「土曜日が安息日だ、神の律法だから守ろう!」と言ったら、きっと「日曜日が休みの日だ!皆が休んでいる。」というに決まっています。
安息日の義務が示された時、多くの者は、世俗の立場から考えて、次の
ように言うのであった。「われわれは、これまで常に日曜日を守ってき
た。われわれの先祖たちも守った。そして、多くの善良で敬虔な人々が、
日曜日を守って幸福に死んだ。もし彼らが正しかったのであれば、われ
われも正しい。この新しい安息日を守れば、世との調和から外れ、彼ら
に感化を及ぼすことができない。7日目を守る小さな団体が、日曜日を
守る全世界に対抗して、いったい何を成し遂げようというのか?」
ユダヤ人が、キリストを拒んだことを正当化しようとしたのは、同様の
議論によってであった。われわれの先祖たちは、犠牲をささげることに
よって神に受け入れられてきたのだから、その子孫であるわれわれも、
同様の方法で救いを受けることのできないはずがあろうか、というので
あった。同様に、ルターの時代において、法王教徒たちは、真のキリス
卜者たちはカトリックの信仰をもって死んだ、それゆえにこの信仰は、
救いを受けるのに十分である、と論じた。しかし、このような論理は、
宗教的信仰や行為のあらゆる発達を、はなはだしく阻害するものである。
日曜日遵守は確立された教義で、幾世紀にもわたって広く行われてき
た教会の慣習である、と論じる者が多い。このような議論に対し、安息
日とその遵守は、もっと古くもっと広範囲のもの、創世以来のものであ
り、神と天使たちとの認めるものであることが示された。地の基がすえ
られ、明けの星が相共に歌い、神の子たちがみな喜び呼ばわったその時、
安息日の基礎が置かれたのである(創世記 2:1―3、ヨブ 38:6、
7参照)。
この制度がわれわれの崇敬を要求するのは当然である。それは、人間の
権威によって命じられたものでも、人間の伝承によるものでもない。そ
れは、日の老いたる者によって制定され、その永遠の言葉によって命じ
られたものである。
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引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。
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