2011年10月27日木曜日

再臨運動の歴史(26)獣の刻印とは何か?

「また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。」(ヨハネ黙示録13:16,17)

上記の聖書の言葉が「獣の刻印」の預言です。
獣の刻印とは何でしょうか?

「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、 神の怒りの杯、、、、を飲み、、」(ヨハネ黙示録14:9,10)

上記の聖書の言葉の
獣とその像とは何でしょうか?

まず、獣は法王制とされています。過去の歴史において強制力を持って人々に礼拝を強要したのは法王制だったのです。

2つの角を持った獣は、「また、小さき者にも、大いなる者にも、富
める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、
その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を
買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、
または、その名の数字のことである」(黙示録 13:16、17)。

第3 天使の警告は、「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を
受ける者は、神の怒りの杯・・・・を飲」むと告げている。

このメッセージの中にあげられている「獣」、それを礼拝するようにと
2つの角を持った獣が強制するところの獣は、黙示録13章の最初の獣、
すなわちひょうに似た獣―法王制―のことである。

「獣の像」は、プロテスタント諸教会が自分たちの教義を強制するために
公権力の助けを求める時に起きてくるところの、そうした背教のプロテス
タント教会を表している。ここで、さらに、「獣の刻印」が明らかにされ
なければならない。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年10月26日水曜日

再臨運動の歴史(25)アメリカと獣の像、教会合同運動はその先ぶれか?

聖書の預言の一つに、終末には宗教的堕落が起こることが示されています。

アメリカにおける教会合同の動きは、獣の像をつくる先ぶれなのでしょうか?エレン・G・ホワイトのこの書が書かれた1900年代にすでに教会合同の動きがあったようです。

現在、各国で教会合同の動きが活発化しているようです。メガチャーチといわれる大型教会の出現もあります。


聖書は、主の再臨に先だって、初期の時代の状態に似た宗教的堕落の
状態が起こるといっている。

「終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を、愛する者、
金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう
者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、
無節制な者、粗暴な者、善を、好まない者、裏切り者、乱暴者、高言を
する者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨
てる者となるであろう」(Ⅱテモテ 3:1―5)。

「しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、
惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう」
(Ⅰテモテ 4:1)。
サタンは、「あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる
不義の惑わしとを」もって働く。そして、「自分らの救となるべき真理に
対する愛を受けいれな」い者はみな、「彼らが偽りを信じるように、迷わ
す力」に陥ってしまうのである(Ⅱテサロニケ 2:9―11)。

こうした不信の状態に達した時に、初期の時代におけると同様の結果が生
じるのである。

初期時代と同様の結果とは、ローマ教会がおこなった異端の迫害です。教会合同により、共通の教理ができあがります。その教理に一致しないものは異端として排除する、迫害するという構造です。

プロテスタント教会内の大きな信仰の差異は、どんなに努力しても一
致を図ることはできないということの決定的証拠であると考える人が多
い。しかし、ここ数年にわたって、プロテスタントの諸教会内において
共通の教義を土台として合同しようとする気運が強く動き出している。
このような合同を達成するためには、たとい聖書的見地からどんなに重
要なものであっても、すべての者が一致しない問題点は、必然的に放棄
されねばならなくなる。

米国の主要な教会が、その共通の教理において合同し、国家を動かし
て教会の法令を施行させ、教会の制度を支持させるようになるその時に、
プロテスタント・アメリカは、ローマ法王制の像を造り、その必然の結
果として、反対者たちに法律上の刑罰を加えることになるのである。

こんなことが起こりうるだろうか?少し前まではそう思われたが、2011年の今、はたしてどうでしょうか?

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

世界の終末の時期を予言するのは間違い。1844年に経験済みのこと

最近、世界の終末を予言したキリスト教徒がいたようです。ニュースによれば、10月21日と予言したが、なにも起こらず、沈黙しているとか。

Yahoo! ニュースより引用
[アラメダ(米カリフォルニア州) 20日 ロイター] 今月21日を「世界の終末の日」と予言してメディアの注目を集めた米国のキリスト教徒ハロルド・キャンピング氏(90)が、「審判の日」を前に沈黙を守っている。

ラジオ局「ファミリー・ステーション」を主宰するキャンピング氏は今年、5月21日を「最後の審判の日」と予言して一躍話題の人となった。その後、当日に何も起こらなかったのは計算ミスだと釈明し、新たに10月21日を世界の終末の日と予言し直した。

5月21日の前には、支持者らが全米約2200カ所に最後の審判の日に関する屋外広告を掲示するなど、米国で大きな騒動となっていた。しかし、今回はそうした動きもほとんど見られない。

世界の終末の予言は、1844年にアメリカでおこなわれましたが、 終末の日時を定めるのは不可!との結論が出ています。なぜなら、聖書は終末の日時を定めていないからです。
しかし、終末は近いとも結論がでています。

1844年はキリストが天の至聖所に入り、調査審判が始まったからです。調査審判が終わると、キリストは地上に再臨されると、聖書は告げています。

2011年10月20日木曜日

再臨運動の歴史(24)政治権力と教会権力の提携

獣の像とは何か?この像は2本の角を持った獣によって造られる。
獣の像を造るきっかけを作ったのは、教会内の背教でした。初代教会は異教を受けいれ、世俗の権力と結びついた。その結果、法王権という権力が人々を支配しました。

しかし、この「獣の像」とは何であろうか。そして、それは、どのよ
うにして造られるものなのであろうか。この像は、2本の角をもった獣
によって造られるものであり、先の獣に模した像である。それは、また、
獣の像とも呼ばれている。したがって、像が何であり、どのようにして
造られるかを知るためには、獣そのもの、すなわち法王権の特徴を研究
しなければならない。

初代教会は、福音の単純さを離れて堕落し、異教の儀式と習慣を受け
入れた時に、聖霊と神の力を失った。そして、人々の良心を支配するた
めに、世俗の権力の援助を求めた。

その結果が、法王権であって、それは、国家の権力を支配し、それを
教会自身の目的、特に「異端」の処罰のために用いた教会であった。
国が獣の像を造るためには、宗教的権力が政府を支配し、教会が、教会
自身の目的を遂行するために、国家の権力を用いるようにならなければ
ならない。

教会が世俗の権力を握った場合は常に、教会はそれを自分の教義に反
対する者を罰するために用いてきた。世俗の権力と提携することによっ
てローマの範に従ったプロテスタント諸教会も、良心の自由を束縛しよ
うとする同様の欲望を表した。英国の国教会が、長年にわたって反対者
を迫害したことは、そのよい例である。16世紀と17世紀にわたって、
幾千という非国教徒の牧師たちが、教会を去らなければならなかった。
そして、牧師も信徒も、多くの者が罰金、投獄、拷問、殉教の憂き目に
あったのである。

初代教会が政府の支持を求めるようになったのは、背教のためであっ
た。そして、これが、法王権―獣―の発展する道を開いた。「まず背
教のことが起り、不法の者・・・・が現れる」とパウロは言った(Ⅱテサロ
ニケ 2:3 )。そのように、教会内の背教が、獣の像を造る道を開くの
である。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(23)アメリカの変貌

アメリカ合衆国の誕生と、最終時代におけるアメリカの変貌が預言されています。子羊のような角を持つ獣は、龍のようにものを言う。獣を拝ませる。獣の像を造らせる。という行為を行なうと預言されています。

「それには小羊のような角が2つあっ」た。小羊のような角は、若々し
さと無垢(むく)と温順さとを示すもので、1798年に「上って来る」
のを預言者が見た時の米国の性格をよく表わしている。最初、米国に逃
れ、王の圧迫と司祭たちの迫害からの避難所を求めた亡命キリスト者た
ちの中には、政治的自由と宗教的自由の広い基盤の上に政府を樹立しよ
うと決意したものが多くあった。彼らの意見は、独立宣言の中に織り込
まれ、「すべての人は平等に造られ、」「生命、自由、および幸福の追
求」という奪うことのできない権利を与えられている、という偉大な真
理の表明となっている。

宗教の自由も保証され、すべての人は良心の命じるところに従って神を
礼拝することが許されている。共和主義とプロテスタント主義が、国家
の根本原則となった。これらの原則が、その権力と繁栄の秘けつである。
全キリスト教国の、圧迫され踏みにじられた人々が、関心と希望を抱い
てこの国に目を向けた。幾百万という人々がその岸辺にやって来て、米
国は、世界で最も強い国の1つに数えられるまでになった。

しかし、小羊のような角をもった獣は、「龍のように物を言った。そ
して、先の獣の持つすべての権力をその前で働かせた。また、地と地に
住む人々に、致命的な傷がいやされた先の獣を拝ませた。・・・・地に住む
人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像
を造ることを、地に住む人々に命じた」(黙示録 13:11―14)。

この象徴の持つ、小羊のような角と龍のような声は、ここで表されて
いる国家の宣言と実行との著しい矛盾を示すものである。国家が「物を
言う」とは、その立法および司法権の活動のことである。米国は、その
ような行為によって、国家の方針の基礎として宣言した自由と平和の原
則を裏切るのである。それが「龍のように」語り、「先の獣の持つすべ
ての権力」を働かせるという預言は、明らかに、それが、龍やひょうに
似た獣によって象徴される国々が表した狭量と迫害の精神を持つように
なるということを予告している。

そして、2つの角を持った獣が「地と地に住む人々に、・・・・先の獣を
拝ませ」るという言葉は、この国が権力を行使して、法王権に対する礼
拝行為となるような何かの遵守を強要することを示している。

このような行動は、この政府の原則、自由制度の精神、独立宣言の率
直厳粛な言明、そして憲法に、全く相反するものである。米国の建国に
当たった人々は、世俗の権力が教会のことに用いられて、その当然の結
果として狭量と迫害が起こることを避けようと、賢明にも努めた。憲法
には、「国会は、宗教の設立に関する、もしくはその自由な活動を禁ずる
法律を制定してはならない」、また、「合衆国のいかなる公職につくに当
たっても、その資格として、宗教的条件を課してはならない」とある。

国民の自由を擁護するこれらの条項にはなはだしく違反することなしに
は、国権は、どんな宗教的法令も施行することはできない。しかし、そ
のような矛盾した行動をとることは、象徴に示されているとおりである。
小羊のような角を持った獣は、純潔柔和で悪意のないことを公言しなが
ら、龍のように物を言うのである。

「地に住む人々を惑わし・・・・(彼らに)獣の像を造ることを・・・・命じ
た。」ここに、立法権が国民にある政体が明示されている。これは、合衆
国が預言に示された国であるというきわめて顕著な証拠である。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(22)アメリカ合衆国の出現

旧約聖書のダニエル書には、アメリカ合衆国の出現が預言されています。その特徴は、地から上ってくる。子羊のような角がある。

ここで、もう1つの象徴が紹介される。預言者は、次のように言って
いる。「わたしはまた、ほかの獣が地から上って来るのを見た。それに
小羊のような角が2つあっ」た(ダニエル 7:11)。

この獣の外見と出現の模様はともに、それが表している国家が、それに
先だってさまざまの象徴のもとに表された国々とは異なっているという
ことを示している。世界を支配してきた強国は、「天の四方からの風が
大海をかきたて」た時に現れた猛獣として、ダニエルに示された
(ダニエル 7:3)。

黙示録 17:では、天使が、水は「あらゆる民族、群衆、国民、国語」
を表わしていると説明した(黙示録 17:15)。風は、争闘を象徴し
ている。天の四方からの風が大海をかきたてるとは、諸国が権力を握る
ために起こした征服と革命の恐るべき光景を表している。


しかし、小羊のような角をもった獣は、「地から上って来る」のが見え
たのであった。このように表される国は、自国を確立するために他の諸
国を覆すのではなくて、まだだれにも占有されていない領土に起こり、
徐々にまた平和のうちに成長する国でなければならない。したがって、
旧世界の込み合った争い合う国々の中、すなわち、あの「民族、群衆、
国民、国語」の荒海の中からは起こり得ないのである。それは、西半球
の大陸に求められねばならない。

1798年に、新世界のどんな国が、勢力を伸ばし、将来強大な国家に
なる可能性を示して、世界の注目を集めていたであろうか。この象徴
が、どの国に適用されるかは、実に明白である。この預言の指示すると
ころに合致する国は、ただ1つしかない。それは、疑いもなく、アメリ
カ合衆国を指している。

獣は、「地から上って来る」のが見えた。そして、翻訳者たちによれば、
ここで「上って来る」と訳されている言葉は、字義どおりには、「植物
のように成長する、または、生える」という意味である。そして、すで
に見たように、その国は、どの国にも占有されていない領土に起こらな
ければならない。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(21)獣とはなにか

第三天使とは、第一、第二の天使に続いて来る天使で、大声でメッセージを宣言します。

第三天使は、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ち続ける者と
は対照的に、別の一団を指摘している。そして彼らの誤りに対して、
粛で恐ろしい警告が発せられている。「おおよそ、獣とその像とを拝み、
額や手に刻印を受ける者は、・・・・神の激しい怒りのぶどう酒を飲」む
(黙示録 14:9、10)。

このメッセージを理解するには、ここに用いられている象徴を正しく解
釈することが必要である。獣、像、刻印とは、いったい何を表わしてい
るのであろうか。

これらの象徴が用いられている一連の預言は、黙示録 12 : から、
キリストを誕生の時に滅ぼそうとした龍から、始まっている。龍は、サ
タンであると言われている(同 12:9)。救い主を殺すためにヘロデ
を動かしたのは、サタンであった。しかし、キリスト教時代の初期にお
いて、キリストと彼の民に戦いをいどんだサタンの主力は、ローマ帝国
であり、そこにおいて最も有力な宗教は、異教であった。こうして、龍
は、第一義的にはサタンを表わすが、第二義的には異教ローマの象徴で
ある。

第13章(1―10)にはもう1つの獣が描かれていて、それは「ひ
ょうに似ており、」龍は、「自分の力と位と大いなる権威とを、この獣
に与えた。」この象徴は、たいていのプロテスタントが信じてきたよう
に、かつて古代ローマ帝国が握っていた力と位と権威とを継承した法王
権を表わしている。ひょうに似た獣について、次のように言われている。

「この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、・・・・そ
こで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天
に住む者たちとを汚した。そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝
つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する
権威を与えられた。」ダニエル 7:の小さい角の描写とほとんど同じで
あるこの預言は、疑いもなく法王権を指している。

4 2か月のあいだ活動する権威が与えられた。」 そして、「その頭
の1つが、死ぬほどの傷を受けた」と預言者は言っている。また、「と
りこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らも
つるぎで殺されねばならない」とある。42か月は、ダニエル 7:の
ひと時と、ふた時と、半時の間」、つまり3年半、すなわち1260日
と同じで、その期間のあいだ、法王権は神の民を圧迫するのであった。

この期間は、すでに述べたように、法王権が至上権を握った紀元538年
に始まり、1798年に終わった。この時、法王はフランス軍の捕虜に
なり、法王権は致命的な傷を受けた。「とりこになるべき者は、とりこ
になっていく。」

法王権の歴史上の事実が預言されています。法王はフランス軍の捕虜になり、そのことが「死ぬほどの傷を受けた」と預言されています。


引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年10月17日月曜日

再臨運動の歴史(20)安息日の意味

安息日は神が創造主であることを示しています。神が創造主であることが、神を礼拝する根拠です。神が創造主であり、我々人間は神に造られたものだからです。

第一天使とは、ヨハネの黙示録14:6に登場します。「わたしは、もうひとりの御使(みつかい)が中空を飛ぶのを見た。」この御使=天使のこと。この天使に続いて第2、第3の天使が登場し、それぞれがメッセージを宣言します。

神が創造主であるという聖書のメッセージは、進化論に慣れ親しんだ人には受け入れがたいものです。しかし、聖書は初めから、神が創造主であると宣言しています。


第一天使は、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ」、神を天地の創造主と
して礼拝せよと、人々に呼びかけている。そうするためには、神の律法
に従わなければならない。

賢者は、「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」
と言っている(伝道の書 12:13)。
神の戒めに対する服従がないならば、どんな礼拝も神に喜ばれることは
できない。
「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。」「耳を
そむけて律法を聞かない者は、その祈でさえも憎まれる」(Ⅰヨハネ 5:
3、箴言 28:9 )。

神を礼拝する義務は、神が創造主であり、他のすべてのものはその存
在を神に依存している、という事実に基づいている。そして、聖書の中
で、異教の神々にまさって神が崇敬と礼拝を受けるべきであると示され
ている時は、常に、神の創造の力がその実証としてあげられている。

「もろもろの民のすべての神はむなしい。しかし主はもろもろの天を造
られた」(詩篇 96:5)。「聖者は言われる、『それで、あなたがた
は、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか。』
目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。」
「天を創造された主、すなわち神であって、・・・・地を・・・・造られた主は
こう言われる、『わたしは主である、わたしのほかに神はない。』」
(イザヤ 40:25、26、45:18)。


詩篇記者も言っている。「主こそ神であることを知れ、われらを造られた
ものは主であって、われらは主のものである。」「さあ、われらは拝み、
ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう」( 詩篇 100:
3、95:6)。

また、天において神を礼拝する聖者たちは、神をあがめるべきその理由と
して、「あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。
あなたは万物を造られました」と述べている(黙示録4:11)。

黙示録 1 4: には、創造主を礼拝するようにという呼びかけが人々
に対してなされている。そして、三重の使命の結果として、神の戒めを
守る一団の人々が起こることを、預言は示している。

神の戒めを守る「聖徒」は、英文ではsaintsと複数になっています。ゆえに、神の戒めを守る「一団の人々」といわれているのです。

これらの戒めの1つは、神が創造主であることを直接指示している。
4条は、次のように宣言している。「7日目はあなたの神、主の安息で
ある。・・・・主は6日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを
造って、7日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖
とされた」(出エジプト20:10、11)。

安息日について、主は、さらに、それが「しるしとなって、主なるわた
しがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである」
と言われる(エゼキエル 20:20)。
そしてその理由は、「それは主が6日のあいだに天地を造り、7日目に
休み、かつ、いこわれたからである」と言われているのである
(出エジプト 3 1:17)。

「創造の記念としての安息日の重要さは、われわれがなぜ神を礼拝す
べきであるかという真の理由を常に考えさせるところにある。」すなわち、
神は創造主であって、われわれは神に造られたものだからである。「それ
ゆえに、安息日は、礼拝の根底そのものである。というのは、安息日が、
他のどんな制度よりも、最も感銘深い方法で、この大真理を教えている
からである。7日目における礼拝だけでなく、すべての礼拝の真の根拠
は、創造主と造られたものとの区別にある。この大事実は、決して廃す
ることのできるものではなく、また決して忘れてはならないものであ
る。」

神がエデンで安息日を制定されたのは、この真理を常に人々の心
に留めておくためであった。
 そして神がわれわれの創造主であるという事実が、神を礼拝する理由と
して存続するかぎり、安息日は、そのしるし、また記念として、存続す
るのである。安息日がすべての人に守られ、人間の思いと愛情が、崇敬
と礼拝の対象としての創造主に向けられていたならば、偶像礼拝者や無
神論者や不信心者は決してでてこなかったことであろう。安息日を守る
ことは、「天と地と海と水の源とを造られた」真の神に対する忠誠のしる
しである。それゆえに、神を礼拝し神の戒めを守ることを命じるメッセ
ージは、特に第4条の戒めを守るよう人々に呼びかけるのである。

創造主に心を向け、神を崇めることは、安息日を守る ことにつながります。1844年以降、第7日安息日を守る人々が現れました。現在もいくつかの教会として存続しています。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(19)神の律法と第4条。安息日を覚えて聖とせよ。

神の律法を認めそれに従うことは、第4条の戒めにも、それを認め従うことになります。
再臨待望者たちは、安息日が第7日目であることを認め、従うことを決心しました。
律法の第4条は安息日を守ることを命じています。

最初に布告された時と同様に、第4条は、十戒の中心の位置を占めて
いる。

「安息日を覚えて、これを聖とせよ。6日のあいだ働いてあなたの
すべてのわざをせよ。7日目はあなたの神、主の安息であるから、なん
のわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、は
しため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主
は6日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、7日
目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」
(出エジプト 20:8―11)。

神の霊が、これらみ言葉の研究者たちの心に感動を与えた。彼らは、
自分たちが創造主の休みの日を無視して、知らずにこの戒めを犯してい
たことを悟らせられた。彼らは、神が清められた日の代わりに週の第1日
を守るその理由を調べ始めた。彼らは、第4条が廃されたとか、安息日
が変更されたとかいう証拠を、聖書の中に見つけることができなかった。

最初に7日目を聖別した祝福は、取り除かれてはいなかった。彼らは真
心から、神のみこころを知り実行しようとしていた。そして今、彼らは、
自分たちが神の律法の違反者であることを知って、深く悲しんだ。そし
て、神の安息日を清く守ることによって、神への忠誠を表わした。



キリストの仲保と神の律法の永遠性に関する光を受け入れた人々は、
これらが黙示録 14:に示された真理であることを見いだした。この章
のメッセージは、主の再臨のために地上の住民に準備をさせる三重の警
告から成っている。

「神のさばきの時がきた」という告知は、人類の救いのためのキリスト
の務めの最後の働きを指している。それは、救い主のとりなしが終わり、
彼がご自分の民を迎えるために地上に帰られるまで宣布しなければなら
ない真理を伝えるものである。

1844年に始まった審判の働きは、生きている者も死んだ者も、すべ
ての者の運命が決定されるまで継続しなければならない。したがって、
これは、人類の恩恵期間の終わりまで続くのである。人々に審判に立つ
準備をさせるために、メッセージは、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。」
「天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」と彼らに命じてい
る。

これらのメッセージを受け入れる結果は、「ここに、神の戒めを守り、
イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」という言葉で表わ
されている。審判に対する備えをするためには、人は神の律法を守らなけ
ればならない。その律法が、審判の時の品性の規準となるのである。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(18)聖所と神の律法

地上における聖所の中の至聖所には、神の契約の箱がありました。同様に天における至聖所にも、神の契約の箱があることが、黙示録11:9に書かれています。

ということは、神の律法が不変であることの動かぬ証拠です。契約の箱の中には、律法=十戒の書かれた板が入っています。現代に至るまで、神の律法は変わらないということになります。「天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ5:18)と救い主は言っています。


「そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた」
(黙示録 11:19)。神の契約の箱は、聖所の第2の部屋、至聖所に
ある。「天にある聖所のひな型と影」であった地上の幕屋の奉仕において
は、この部屋は、大いなる贖罪の日に聖所の清めのために開かれるだけ
であった。

したがって、天にある聖所が開かれて、契約の箱が見えたという告知は、
1844年に天の至聖所が開かれて、キリストが贖罪の最後の働きをす
るためにそこに入られたことを示している。

至聖所において奉仕を始められた大祭司に、信仰によって従っていった
人々は、彼の契約の箱を見た。彼らは、聖所の問題を研究して、救い主
の奉仕が変わったことを理解するようになっていた。そして彼らは、彼
が今、神の箱の前で務めをなし、ご自分の血によって罪人のために嘆願
しておられるのを見たのであった。

地上の幕屋の箱には、神の律法が刻まれた2枚の石の板が入っていた。
箱は、ただ律法の板の容器にすぎなかったが、神の律法が入っていたた
めに、それに価値と神聖さがあったのであった。天にある神の聖所が開
かれた時、契約の箱が見えた。天の聖所の至聖所の中に、神の律法がた
いせつに安置されている。それは、神ご自身がシナイの雷鳴の中で語り、
ご自分の手で石の板に書かれた律法であった。

天の聖所にある神の律法は、大いなる実体であって、石の板に刻まれ、
モーセによって五書の中に記録された戒めは、その正確な写しである。
この重要な点を理解するに至った人々は、こうして、神の律法の神聖さ
と不変性を知るようになった。彼らは、「天地が滅び行くまでは、律法の
一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」とい
う救い主の言葉の力を、これまでになく悟った(マタイ 5:18)。

 引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年10月13日木曜日

再臨運動の歴史(17)重大厳粛な真理

ノアの洪水のとき、ロトがソドムから救出されたとき、警告が与えられました。警告に従って逃れた人々は、洪水や火から救われました。これらは、現代人への教訓となっているのです。

不信のユダヤ人たちの状態は、キリスト者と称しながら恵み深い大祭司
の働きを故意に知らずにいる、軽率で不信の人々の状態を例示するもの
である。

型としての奉仕において、大祭司が至聖所に入った時、全イスラエルは
聖所のまわりに集まり、罪のゆるしを受けて、会衆の中から絶たれるこ
とがないようにと、この上なく厳粛な態度で、神の前に心を低くしなけ
ればならなかった。

贖罪の日の実体である今日、われわれが、われわれの大祭司の働きを理
解し、どのような義務がわれわれに要求されているかを知ることは、ど
んなにか重要なことであろう。
人間は、神が憐れみのうちにお与えになった警告を拒否して無事では
あり得ない。ノアの時代に天からの使命が世に送られた。そして、彼ら
の救いは、彼らがその使命をどう受けるかにかかっていた。


彼らが警告を拒否したために、神の霊は罪深い人類から退き、彼らは洪
水によって滅びた。アブラハムの時代に、恵みは、ソドムの邪悪な住民
に訴えることをやめた。そして、ロトと彼の妻と2人の娘のほかは、み
な、天から降った火で焼き尽くされた。

キリストの時代でもそうであった。神のみ子は、その時代の不信なユダ
ヤ人に、「おまえたちの家は見捨てられてしまう」と言われた
(マタイ 23:38)。

同じ無限の力のお方は、最後の時代をながめて、「自分らの救となるべ
き真理に対する愛を受けいれなかった」者について、「そこで神は、彼
らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じない
で不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである」と宣言しておられ
る(Ⅱテサロニケ 2:10―12)。

彼らが神の言葉の教えを拒否する時に、神はみ霊を取り去って、彼らを、
彼らが好む惑わしの中に捨てておかれる。しかし、キリストは、なおも、
人類のためにとりなしておられ、求める者には光が与えられる。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(16)天におけるキリストの奉仕は続いている

天におけるキリストの働きは今も続いています。この事実を認め、イエスの仲保の働きに従っていく人々がいます。天におけることがらなので、信仰によって従っていくのです。

聖書の中でユダヤ人がキリストを拒んだのですが、救い主として信じなかったために、天の聖所におけるキリストの働きをも認めることができなかったのでした。

すでに見たように天の聖所の型である地上の聖所の務めにおいては、
贖罪の日に大祭司が聖所の至聖所に入った時に、第1室における務めは
やんだのである。神は、次のように命じられた。「彼が聖所であがない
をするために、はいった時は、・・・・出るまで、だれも会見の幕屋の内に
いてはならない」(レビ 16:17)。

そのように、キリストが、贖罪の最後の務めを行うために至聖所に入ら
れた時、彼は、第1室の務めを終えられた。しかし、第1室の務めが終
わった時に、第2室の務めが始まった。型としての奉仕において、贖罪
の日に大祭司は、聖所を去って、神の前に出て、真に罪を悔いるすべて
のイスラエル人のために罪祭の血をささげた。

そのようにキリストは、仲保者としての働きの一部を終えて、そのみ業
のもう1つの部分を開始され、そして、なお天父の前で、ご自分の血に
よって罪人のために嘆願なさるのであった。


イエスの仲保による祝福にあずかる者は、贖罪の大事業をなさるイエ
スに、信仰によって従っていく人々である。一方、この働きに関する光
を拒む者は、その祝福にあずかることができない。キリストの初臨の時
に与えられた光を拒み、彼を世の救い主として信じなかったユダヤ人た
ちは、彼によるゆるしを受けることができなかった。

イエスが昇天して、ご自分の血によって天の聖所に入り、弟子たちにご
自分の仲保による祝福を注ごうとされた時、ユダヤ人たちは全くの暗黒
の中に取り残されて、彼らの無益な犠牲と供え物を続けたのであった。
型と影の奉仕は終わっていた。これまで人が神に近づいていた扉は、も
はや開かれてはいなかった。

ユダヤ人は、彼を見いだし得る唯一の道、すなわち、天の聖所における
奉仕を通して彼を求めることを、拒んだのであった。したがって彼らは、
神との交わりを見いだすことができなかった。彼らに対して、扉は閉め
られた。彼らは、キリストが真の犠牲であり、神の前の唯一の仲保者で
あることを知らなかった。そのために彼らは、彼の仲保の祝福にあずか
ることができなかった。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(15)婚宴の部屋にはいるもの

1844年のアメリカにおける再臨運動の高まりは、「さあ、花婿だ」という宣言に表されています。再臨待望者たちは、聖書の中に自分たちの経験が預言されている、と理解しました。彼らの経験が、10人の乙女のたとえ話に当てはまる経験だったからです。
1844年の夏の「さあ、花婿だ」という宣言は、多くの者に、主の
再臨はすぐだと期待させた。その指定された時に、花婿は、人々が期待
したように地上にではなくて、婚宴のために、すなわちみ国を受けるた
めに、天の日の老いたる者のもとに来たのである。

「用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやに入り、そして
戸がしめられた。」
彼らは、婚宴の席に列することはできなかった。なぜなら、これは天に
おいて起こり、彼らは地上にいるからである。キリストの弟子たちは、
「主人が婚宴から帰って」くるのを「待って」いなければならない
(ルカ 12:36)。

しかし、彼らは、主の働きをよく理解し、彼が神の前に出られるのに信
仰によって従っていかねばならない。この意味において、彼らは、婚宴
の部屋に入ったと言われているのである。

たとえによると、婚宴の部屋に入ったのは、あかりとともに器に油を
持っていた者たちであった。聖書から真理の知識を得るとともに、聖霊
と神の恵みとを持っていた人々、厳しい試練の夜も、忍耐して待ち、よ
り明らかな光を求めて聖書を研究した人々、

―これらの人々は、天の聖所に関する真理と、救い主の務めの変化とを
認め、信仰によって、天の聖所における彼の働きに従っていった。そし
て、聖書のあかしをとおして同じ真理を受けいれ、キリストが仲保の最
後の働きを行うために、そしてその最後にはみ国を受けるために、神の
前に出られるのに信仰によって従っていく者たちは、すべて、婚宴の部
屋に入るものとして表わされているのである。

マタイ 2 2: のたとえにおいて、同じ婚宴の象徴が用いられ、婚宴
に先だって調査審判が行われることが明示されている。婚宴に先だって、
王は、すべての客が、礼服、すなわち、小羊の血で洗って白くしたしみ
のない品性の衣を着ているかを見るために入ってくる( マタイ 2 2:
11、黙示録 7:14参照)。

欠けていることを発見された者は、追い出されるが、調査の上で礼服を
着ていることが認められたすべての者は、神に受け入れられ、み国に
入って神のみ座のもとに座るに足る者と見なされるのである。品性を調
査し、だれが神の国に入る準備をしたかを決定するこの働きが、調査審
判の働きであり、天の聖所における最後の働きなのである。

調査の働きが終わり、各時代においてキリストに従う者であると称し
てきた人々の調査と決定がなされた時、その時初めて、恩恵期間が終わ
り、恵みの扉が閉じられる。このように、「用意のできていた女たちは、
花婿と一緒に婚宴のへやに入り、そして戸が閉められた」という短い
1節の中に、救い主の最後の務めが終わって、人間の救いの大事業が完
成される時までが、示されている。


引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」CD-ROM福音社版より。段落わけと背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(14)調査審判と婚宴のたとえ

調査審判のことは、婚宴のたとえ話にも描かれています。婚宴のたとえ話はマタイによる福音書25章にある10人の乙女の話です。
1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。
6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。
7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。
9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。
12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。(マタイによる福音書25:1~13)

たとえの中で、婚宴はキリストが御国を受けることを表しています。花婿の到着とは、御国を受けるためにキリストが婚宴の席に到着したこと、を意味します。婚宴の席に到着したキリストは、日の老いたる者=父なる神から御国を賜ることを表しています。
わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。
彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル書7:13,14)

ダニエル 8: 1 4に示されているところの、キリストがわれわれの
大祭司として、聖所を清めるために至聖所に来られるということ、ダニ
エル 7:13に提示されている、人の子が日の老いたる者のもとに来る
ということ、そしてマラキが預言した主がその宮に来られるということ、
これらはみな、同じできごとの描写である。

そして、これはまた、キリストがマタイ25章の10人のおとめのたと
えの中で語られた、婚宴の席への花婿の到着ということによっても表さ
れている。

ダニエル8:14「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」

18 4 4年の夏から秋にかけて、「さあ、花婿だ」という宣言が発せ
られた。その時に、思慮深いおとめたちと思慮の浅いおとめたちによっ
て表されている二種類の人々が現れた。すなわち、主の出現を喜んで待
ち、主に会う準備にいそしんだ人々と、恐怖にかられて衝動的に行動し、
真理の理論だけに満足して、神の恵みに欠けていた人々とであった。

たとえの中では、花婿が来た時に「用意のできていた女たちは、花婿と
一緒に婚宴のへやにはい」った。
ここで示されている、花婿の到着は、婚宴の前に起こる。婚宴は、キリ
ストがみ国をお受けになることを意味している。

み国の首都でありその代表である聖なる都、新エルサレムは、「小羊の
妻なる花嫁」と呼ばれている。天使は、ヨハネに言った。
「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう。」「この御使は、わ
たしを御霊に感じたまま、・・・・連れて行き、聖都エルサレムが・・・・神の
みもとを出て天から下って来るのを見せてくれた」とヨハネは言ってい
る(黙示録21:9、10)。

したがって、明らかに、花嫁は聖都を表し、花婿を迎えに出るおとめた
ちは、教会の象徴である。黙示録によれば、神の民は、婚宴に招かれた
客であると言われている(黙示録 19:9参照)。もし彼らが客であれ
ば、花嫁をも代表することはできない。


キリストは、預言者ダニエルが言っているように、天の日の老いたる者
から、「主権と光栄と国」とを賜るのである。彼は、「夫のために着飾っ
た花嫁のように用意をととのえ」たみ国の首都、新しいエルサレムをお
受けになる(ダニエル 7:14、黙示録 21:2)。

み国を受けたのちに、彼はご自分の民を救うために、王の王、主の主と
して栄光のうちに来られる。そして彼らは、天国で「アブラハム、イサ
ク、ヤコブと共に宴会の席に」つき、小羊の婚宴にあずかるのである
(マタイ 8:11、ルカ 22:30参照)。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年10月12日水曜日

再臨運動の歴史(13)主に会う準備

1844年当時、再臨を待ち望む人々は、再臨を伝えるメッセージを伝えましたが、主キリストに会う準備ができていなかった、とされています。再臨待望者は「彼らの着物は汚れがなく、彼らの品性は、血をそそがれて罪から清まっていなければならない。」と記されています。

しかし、人々は、まだ主に会う準備ができていなかった。まだ、彼ら
のためになされねばならぬ準備の働きがあった。彼らは、まず光を受
けて、天にある神の宮に心を向けねばならなかった。


預言者は語っている。「その来る日には、だれが耐え得よう。そのあ
らわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のよ
うであり、布さらしの灰汁(あく)のようである。彼は銀をふきわけ
て清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを
清める。そして彼らは義をもって、ささげ物を主にささげる」
(マラキ 3:2、3)


天の聖所におけるキリストのとりなしがやむ時地上に住んでいる人々
は、聖なる神の前で、仲保者なしに立たなければならない。彼らの着
物は汚れがなく、彼らの品性は、血をそそがれて罪から清まっていな
ければならない。キリストの恵みと、彼ら自身の熱心な努力とによっ
て、彼らは悪との戦いの勝利者とならなければならない。

天で調査審判が行われ、悔い改めた罪人の罪が聖所から除かれている
その間に、地上の神の民の間では、清めの特別な働き、すなわち罪の
除去が行われなければならない。この働きは、黙示録 14:の使命の
中にさらに明瞭に示されている。


引用文はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘 」CD-ROM福音社より引用。
段落わけと背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(12)調査審判の開始

エルサレムを建て直せとの命令が出てから2300年後、即ち1844年に、聖所が清められるとは、調査審判が始まったことを意味します。以下の引用文には、調査審判の根拠となる聖書の言葉が解説されています。

「2300の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい
状態に復する」というダニエル 8:14の預言と、
「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである」
という第1天使の使命とは、ともに、至聖所におけるキリストの務め、
すなわち調査審判をさすもので、神の民の救いと悪人の絶滅のために
キリストが来られることをさすものではなかった。


キリストは、彼らが期待していた地上にではなくて、型において予表
されていたように、天にある神の宮の至聖所に来られたのであった。
預言者ダニエルは、キリストはこの時、日の老いたる者のもとに来る
と表現している。

「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者
が、天の雲に乗ってきて、」地上ではなくて、「日の老いたる者のも
とに来ると、その前に導かれた」(ダニエル 7:13)。

この来られることについては預言者マラキも預言している。
「あなたがたが求める所の主は、たちまち〔突然・英語訳〕その宮に
来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言わ
れる」(マラキ 3:1)。


日の老いたる者とは、父なる神。
人の子のような者は、キリストのこと。


引用文はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘 」CD-ROM福音社より引用。
段落わけと背景色は投稿者による。

2011年10月11日火曜日

再臨運動の歴史(11)贖いの最後の働き、調査審判

聖所を清めるために、キリストは至聖所にはいられたのですが、まず調査審判がおこなわれなければなりません。調査審判とは、だれが贖いの恵みを受けるにふさわしいかを決めることです。記録の書には、その人の善行、悪い行いなどすべての行いが記録されているのです。ですから、至聖所におけるキリストの働きが行なわれている今は、非常に厳粛な時代といえるのです。

1800年にわたって、聖所の第1の部屋において、この務めが続け
られた。キリストの血は、悔い改めた信者のために嘆願し、彼らがゆる
され天父に受け入れられるようにしてきたが、しかし彼らの罪は、まだ
記録の書に残っていた。型としての儀式において、1年の終わりに贖罪
の働きがあったように、人類の贖いのためのキリストの働きが終わる前
に、聖所から罪を取り除く贖罪の働きが行われるのである。

これが、2300日が終了した時に始まった務めであった。その時に、
預言者ダニエルが預言したとおり、われわれの大祭司は、彼の厳粛な働
きの最後の部分を行うために、すなわち聖所を清めるために、至聖所に
入られたのであった。

古代において、民の罪が、信仰によって罪祭の上におかれ、そしてそ
の血によって、象徴的に地上の聖所に移されたように、新しい契約にお
いては、悔い改めた者の罪は、信仰によってキリストの上におかれ、そ
して実際に天の聖所に移されるのである。


そして、地上の聖所の型としての清めが、それを汚してきた罪を取り除
くことによって成し遂げられたように、天の聖所の実際の清めも、そこ
に記録されている罪を取り除くことによって、すなわち消し去ることに
よって、成し遂げられねばならない。

しかし、これを完成するためには、だれが罪の悔い改めとキリストを信
じる信仰によって、贖いの恵みを受ける資格があるかを決定するために、
記録の書の調査がなされねばならない。したがって、聖所の清めには、
調査の働き、すなわち審判の働きが含まれるのである。この働きは、キ
リストがご自分の民を贖うために来られる前に行われねばならない。な
ぜなら、彼が来られる時には、彼はすべての者に、それぞれの行為に応
じて報いを与えられるからである(黙示録 22:12参照)。

こうして、預言の言葉の光に従った者たちは、キリストは、2300日
が1844年に終了した時に、この地上に来られるのではなくて、再臨
に備えて贖いの最後の働きをするために、天の聖所の至聖所に入られた
のだということを知った。

また、罪祭が犠牲としてのキリストをさし、大祭司が仲保者としての
キリストを表す一方、アザゼルのやぎは罪の張本人であるサタンを象徴
していて、彼の上に、真に悔い改めた者たちの罪が最終的に置かれるの
だ、ということもわかった。大祭司は、罪祭の血によって、聖所から罪
を除去した時に、それをアザゼルのやぎの上においた。キリストが、彼
の務めの最後に、ご自身の血によって、天の聖所からご自分の民の罪を
除去される時、彼はそれをサタンの上におかれる。サタンは、審判の執
行において、最終的な刑罰を負わねばならない。アザゼルのやぎは、人
里離れた地へと追い払われ、イスラエルの宿営には2度と帰って来なか
った。そのように、サタンは、神と神の民の前から永遠に追放される。
そして、罪と罪人の最終的な滅亡の時に消し去られるのである。

引用文はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘 」CD-ROM福音社より引用。
段落わけと背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(10)型と実体

地上の聖所が型で、天の聖所が実体です。
贖罪に関する重要な真理が、型としての儀式によって教えられている。
罪人の代わりに、その身代わりとなるものが受け入れられた。しかし、
犠牲の血によって罪が取り消されたわけではなかった。こうした方法に
よって、罪が聖所に移されたのであった。罪人は、血のささげ物によっ
て、律法の権威を認め、犯した罪を告白し、来たるべき贖い主を信じる
信仰によって許しを願っていることを表明した。

しかし彼は、律法の宣告から全く解放されたのではなかった。大祭司は、
贖罪の日に、会衆からのささげ物をとって、その血をたずさえて至聖所
に入り、律法の真上にある贖罪所の上にそれを注いで、律法の要求を満
たした。それから彼は、仲保者として、罪を自ら負って、聖所から持ち
出した。彼は、アザゼルのやぎの頭に手をおいて、すべての罪を告白し、
こうして、象徴的に、自分からアザゼルのやぎへと罪を移した。それか
やぎは、罪を背負って去り、そして罪は永遠に民から切り離されたも
のと見なされた。


これが、「天にある聖所のひな型と影」に従って行われた儀式であっ
た。そして、地上の聖所の務めにおいて、型として行われたことが、天
の聖所の務めにおいて、現実に行われるのである。われわれの救い主は、
昇天ののち、われわれの大祭司としての働きを始められた。パウロは次
のように言っている。「ところが、キリストは、ほんとうのものの模型に
すぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわ
たしたちのために神のみまえに出て下さったのである」( ヘブル 9 :
24)。

戸口であり、聖所を中庭から区別するものであった「幕の内」におい
て、すなわち、聖所の第1の部屋において1年を通じて行われる祭司の
務めは、キリストが昇天の時に始められた務めを表している。神の前に
罪祭の血をささげ、イスラエルの祈りとともにたちのぼる香をたくこと
が、日ごとの務めにおける祭司の働きであった。


同様にキリストは、罪人のためにご自分の血をもって天父に嘆願なさり、
そのみ前に、ご自身の義の尊い香とともに、悔い改めた信者の祈りを差
し出された。これが、天の聖所の第1の部屋における務めであった。

キリストが弟子たちを離れて昇天された時、弟子たちは、信仰によっ
てここまで彼についていった。ここに彼らの希望は集中した。パウロは
次のように言った。「この望みは、わたしたちにとって、いわば、たまし
いを安全にし不動にする錨であり、かつ『幕の内』にはいり行かせるも
のである。その幕の内に、イエスは、永遠に・・・・大祭司として、わたし
たちのためにさきがけとなって、はいられたのである。」かつ、やぎと子
牛との血によらず、ご自身の血によって、1度だけ聖所に入られそれに
よって永遠のあがないを全うされたのである」(ヘブル 6:19、20、
9:12)。

2011年10月5日水曜日

再臨運動の歴史(9)聖所の清めとはなにか?大いなる贖罪の日

天の聖所が清められるとは、何を表しているのか?預言研究者たちはさらに聖書の研究を続けました。まず、地上の聖所で何がおこなわれたかを調べる必要があります。

地上の聖所では、罪をおかした人が犠牲の動物に手を置き、罪を告白します。それから、自らの手で犠牲の動物を殺します。すると、祭司は祭壇や聖所の垂れ幕に、その血を注ぎます。こうして、その人の罪は赦されるのです。正確には、罪は聖所に移されるのです。

旧約聖書のレビ記には、聖所における祭司の務めが詳細に書かれています。一度読んだくらいでは、理解できないほど詳しいです。しかし、人の罪を赦す手順は明快で、神様の偉大な知恵が感じられます。

この罪の赦しと罪からの清めを、段階的に解き明かしていますので、以下に引用します。

毎日、悔い改めた罪人が幕屋の入り口に供え物を持って来て、手を犠牲の
頭において自分の罪を告白し、こうして自分の罪を象徴的に自分自身から
罪のない犠牲へと移した。それから動物はほふられた。
「血を流すことなしには」罪のゆるしはあり得ない、と使徒は言っている。
「肉の命は血にあるからである」(レビ 17:11)。
破られた神の律法は、罪人の生命を要求した。
罪人の失われた生命を表す血、すなわち犠牲が彼の罪を負って流したも
のが、祭司によって聖所の中に運ばれ、幕の前に注がれた。幕の後ろに
は、罪人が犯したその律法を入れた箱があった。この儀式において、罪
は、血によって、象徴的に聖所に移された。

このようにして、毎日、罪人は犠牲の動物を殺し、その血が聖所に注がれることによって、罪が聖所に移されました。聖所は罪で満ちています。
つぎに、1年に一度、大祭司が至聖所にはいり、聖所の罪を清めることを行ないます。

こうした務めが毎日、1年中を通じて行われた。イスラエルの罪がこ
うして聖所に移され、そして、それを取り除くために特別の務めが必要
であった。そこで、神は、聖所の各部屋のために贖いをすることをお命
じになった。

「イスラエルの人々の汚れと、そのとが、すなわち、彼らのもろもろの
罪のゆえに、聖所のためにあがないをしなければならない。
また彼らの汚れのうちに、彼らと共にある会見の幕屋のためにも、その
ようにしなければならない。」また、贖罪は、祭壇にも行われるべきで、
「イスラエルの人々の汚れを除いてこれを清くし、聖別しなければなら
ない」(レビ 16:16、19)。

1年に1度、大いなる贖罪の日に、大祭司は聖所を清めるために至聖
所に入った。そこで行われた務めによって、1年間の務めが完了した。
贖罪の日に、2頭のやぎが幕屋の入り口に連れてこられ、くじが引かれ
た。「1つのくじは主のため、1つのくじはアザゼルのため」( 同 16:
8)。主のためのくじに当たったやぎは、民のための罪祭としてほふられ
た。そして、大祭司は、その血を幕の中に携えていき、贖罪所の上と贖
罪所の前に注がなければならなかった。血は、幕の前の香壇にも注がな
ければならなかった。

「そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエ
ルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろも
ろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の
手によって、これを荒野に送らなければならない。こうしてやぎは彼ら
のもろもろの悪をになって、人里離れた地に行くであろう」(同 16:
21、22)。アザゼルのやぎは、もはやイスラエルの宿営に帰っては来
なかった。そして、やぎを連れ出した人々は、宿営に帰る前に、水で身
をすすぎ、衣服を洗わなければならなかった。

この儀式全体は、神が聖であられて、罪をいみきらわれることを、イ
スラエルの人々に深く感じさせるよう意図されていた。そして、さらに、
罪に触れるならば必ず汚れることを、彼らに示すものであった。贖罪の
業が進行している間、すべての者は、身を悩まさなければならなかった。

仕事をすべてやめて、イスラエルの全会衆は、厳粛に神の前にへりくだ
り、祈り、断食し、心を深く探って1日を過ごさなければならなかった。

贖罪(しょくざい)の業、即ち聖所の清めが行なわれている間、イスラエルのすべての者は身を悩まさなければならなかった。身を悩ますとは、神の前に出て心を探り、すべての罪の告白をしただろうか?告白していない罪はないだろうか?と身を悩ます、即ち心を深く探って、心を悩ますという意味です。

(引用文はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」福音社 CD-ROMより。背景色、段落は投稿者による。)

再臨運動の歴史(8)聖所の清めとはなにか?

キリストの再臨を待望していた人々は、さらに聖書を研究し、聖所とはなにか?はっきりと解答が与えられているのを確認します。

引用が長いのですが、聖所の清めとは、人の「罪を取り除く」ことだ!とわかってきます。
キリストが再臨するとき、生きている信者は生きたまま天に上げられます。しかし、罪を持ったまま天国に行くことはできません。天国は罪のないところだからです。

聖所とは何かという質問に対して、聖書ははっきりと解答を与えてい
る。聖書に用いられている「聖所」という言葉は、まず第1に、天にあ
るもののひな型としてモーセが建てた幕屋をさし、そして第2に、地上
の聖所が指し示していたところの、天にある「真の幕屋をさしている。
キリストの死によって、型としての奉仕は終わった。

天にある「真の幕屋」は、新しい契約の聖所である。そして、ダニエル
 8:14の預言は、この時代に成就されるのであるから、ここで言う聖
所は、新しい契約の聖所であるに違いない。2300日が1844年に
終結した時に、この地上には幾世紀もの間、聖所はなかった。こうして、
「2300の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状
態に復する」という預言は、疑いもなく天の聖所をさすのである。

しかし、聖所の清めとは何かという、最も重要な問題が、未解決のま
ま残っている。地上の聖所に関連してこうした儀式があったことは、旧
約聖書に記されている。

しかし、天において、清められねばならないものが、あるのであろうか。
ヘブル人への手紙9章には、地上と天の両方の聖所の清めが明らかに教
えられている。「こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血に
よってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあ
り得ない。このように、天にあるもののひな型は、これらのもの〔動物
の血〕できよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更に
すぐれたいけにえで、きよめられねばならない

(ヘブル 9:22、23)。
それは、キリストの尊い血である。


この清めは、型としての儀式においても実際の儀式においても、血に
よって成し遂げられなければならない。前者は、動物の血によって行わ
れ、後者は、キリストの血によって行われる。パウロは、なぜこの清め
が血によって行われねばならないかということの理由として、血を流す
ことなしには、罪のゆるしがないからであると述べている。

ゆるし、すなわち罪の除去という働きが、成し遂げられなければならな
い。しかし、罪は、天や地上の聖所とどのような関係にあるのであろう
か。このことは、象徴的儀式を調べることによって学ぶことができる。
なぜなら、地上で奉仕した祭司は、「天にある聖所のひな型と影とに」
仕えていたからである(ヘブル 8:5)

再臨運動の歴史(36)真理は反対を引き起こす

なぜ、真理は反対を引き起こすのでしょうか? 真理に従うことは、犠牲を要求されるからです。 耳ざわりのよい言葉のみを聴いているなら、反対は起こらないわけです。 聖書の預言を信じる人はほんのわずか。しかも、神の戒めに従おうとする者は非難される。 だから、「ここに...