2011年11月30日水曜日

再臨運動の歴史(36)真理は反対を引き起こす



なぜ、真理は反対を引き起こすのでしょうか?
真理に従うことは、犠牲を要求されるからです。
耳ざわりのよい言葉のみを聴いているなら、反対は起こらないわけです。

聖書の預言を信じる人はほんのわずか。しかも、神の戒めに従おうとする者は非難される。
だから、「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」と記されています。

昔と同様に今日においても、時代の罪と誤りを指摘する真理を伝える
ことは、反対を引き起こす。「悪を行っている者はみな光を憎む。そし
て、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしな
い」(ヨハネ 3:20)。

人々は、自分たちの立場を聖書によって支持することができないのがわ
かると、多くの者はなんとかしてそれを支持しようと決意し、一般受け
のしない真理を擁護して立つ者たちの品性や動機を、悪意をもって攻撃
するのである。

各時代においてとられてきたのは、この同じ方針であった。エリヤはイ
スラエルを悩ます者と言われ、エレミヤは裏切り者と言われ、パウロは
神殿を汚す者と言われた。その当時から今日に至るまで、真理に忠誠を
尽くそうとする者は、治安を妨害する者、異端者、分離者と非難されて
きた。預言の確実な言葉をなかなか信じようとしない群衆は、その時代
の罪を大胆に譴責する者への非難を、なんの疑いもなく受け入れる。

この精神は、ますます増大している。そして聖書は、国家の法律が神の
律法と激しく衝突するために、神のすべての戒めに従おうとする者は悪
事を行う者として非難され罰せられるようになる、という時が近づきつ
つあることをはっきりと教えている。


引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年11月22日火曜日

再臨運動の歴史(35)現代への教訓は、旧約の時代に示されていた


Tatham Garden [slide] / Smithsonian Institution

現代人に対する教訓は、旧約聖書の時代にすでに示されていました。我々現代人が終末時代に生きるためにです。

古代イスラエルの歴史は、大きく変わります。彼らが奴隷となっていたエジプトから、脱出するところから劇的に変化します。

それは、イスラエルとそれを導く神との関わりです。神がイスラエルをエジプトから救い出した、という関係です。主役は神です。「イスラエルをエジプトから導き出した神」と神ご自身が言われたのです。

むかしのイスラエルの歴史は、再臨信徒の団体の過去の経験の、顕著
な実例である。神は、イスラエルの人々をエジプトから導き出されたよ
うに、ご自分の民を再臨運動において導かれた。大失望のときに、彼ら
の信仰は、ヘブル人が紅海で試みられたような試練を受けた。もしも彼
らが、過去の経験において彼らとともにあった神の導きの手に、なおも
信頼していたならば、彼らは神の救いを見たことであろう。

もしも、1844年の運動に一致して働いた者がみな、第3天使の使命
を受け入れ、聖霊の力によってそれを宣布していたならば、主は彼らの
努力とともに力強く働かれたことであろう。輝かしい光が、洪水のよう
に世界を覆ったことであろう。何年も前に、地の住民に警告は発せられ、
最後の働きが完結して、 キリストはご自分の民を救うためにおいでに
なっていたであろう。
Waterfall / narin-flickr
イスラエルはすぐに約束の地、カナンにはいることができずに、40年間荒野をさ迷い続けました。
カナンにはいれなかったのは、不信仰のためでした。カナンを与えようという神の約束を信じなかったのです。だから、荒野をさ迷ってしまった。

この不信は、歴史は繰り返すのごとく、最終時代に再び現れると記されています。

イスラエル人が荒野を40年もさまようことは、神のみこころではな
かった。神は、彼らをまっすぐにカナンの地に導いて、彼らをそこで、
聖く幸福な国民として定住させようとしておられた。

しかし、「彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえで」
あった(ヘブル 3:19)。堕落と背信のために彼らは荒野で滅び、
他の者たちが約束の国に入るために起こされた。

同じように、キリストの再臨がこのように遅れ、神の民がこのように
長く、罪と悲しみのこの世にとどまることは、 神のみこころではな
かった。しかし、不信が、彼らを神から引き離した。彼らが神に命じ
られた働きをすることを拒んだ時に、使命を宣言するために他の者た
ちが起こされた。

イエスは、世界をあわれんで、彼の再臨を延ばしておられる。それは、
罪人に警告を聞く機会を与え、神の怒りが注がれる前に、主のうちに
避難させるためである。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(34)再臨待望者は皆、聖所と神の律法を受け入れたのか?

Looking Down the Upper Jordan Valley from Mount HermonLooking Down the Upper Jordan Valley from Mount Hermon / OSU Special Collections & Archives

再臨待望者たちは皆が、聖所と神の律法を受け入れたのでしょうか?
これらの真理すなわち聖所と神の律法=安息日を拒否したと記録されています。

再臨の日時を定めることは、今や、無意味である。なぜなら、1844年はキリストが天の聖所の至聖所に入り、キリストを信じる者の「罪を取り除く」働きを開始したからだ。

再臨信徒のするべき事は、天の至聖所におられるキリストに従って行く。律法=安息日を守る。この2点だった。天の至聖所に向かって悔い改め、願いを捧げ、安息日を休む生活を始める。これがとるべき道だった。

ところが、多くの者はそうしなかった。と記録されています。

再臨信徒の大部分は、聖所と神の律法に関する真理を拒否した。そし
て、多くの者は、再臨運動に関する信仰をも放棄して、この働きに適用
された預言について、不健全で矛盾した意見を取り入れた。ある人々は、
キリスト再臨のはっきりした時日を何度も定めるという誤りに陥った。

今や、聖所問題の上に輝いている光は、どんな預言的期間も再臨までは
及んでいないこと、そして、この事件の正確な時は預言されていないこ
とを、彼らに示したはずであった。しかし彼らは、光から顔をそむけて、
主の来られる日を定め続け、そのたびに失望に陥っていた。

Most Holy Redeemer / H.L.I.T.


エレン・G・ホワイトは聖書の警告に聴くように指示しています。
テサロニケ教会が、キリストの再臨に関して誤った見解を抱いた時、
使徒パウロは、彼らの希望と期待とを注意深く神の言葉によって吟味す
るように、彼らに勧告した。彼は、キリスト再臨の前に起こる事件を示
している預言を引用して、彼らの時代にキリストがおいでになると期待
する根拠がないことを彼らに示した。

「だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない」と彼は警告
している(Ⅱテサロニケ 2:3)

もしも彼らが、聖書の承認しない期待を抱くならば、誤った行動に走り、
失望の結果不信心な者たちの笑いものになり、落胆して、自分たちの救
いに不可欠な真理を疑うような誘惑に陥ってしまったであろう。

テサロニケ人への使徒の勧告は、終末時代に生きている者たちに対して
の、重大な教訓を含んでいる。主の再臨の明確な時日の上に信仰を置く
ことができないなら、熱心に準備にいそしむことができないと感じてい
る再臨信徒が多い。しかし、彼らの希望が、何度も何度も燃え上がって
は崩れ去るうちに、彼らの信仰は打撃を受けて、預言の大真理をほとん
ど感じることができなくなってしまうのである。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年11月21日月曜日

再臨運動の歴史(33)日曜日遵守の議論が当然のように起こった

costa rican mountain rangecosta rican mountain range / costa-rica-beauty

安息日を守ることが示されると、日曜日を守るのが一般的だ、という議論が起こりました。今でもそうでしょう。今、声を大にして、「土曜日が安息日だ、神の律法だから守ろう!」と言ったら、きっと「日曜日が休みの日だ!皆が休んでいる。」というに決まっています。

安息日の義務が示された時、多くの者は、世俗の立場から考えて、次の
ように言うのであった。「われわれは、これまで常に日曜日を守ってき
た。われわれの先祖たちも守った。そして、多くの善良で敬虔な人々が、
日曜日を守って幸福に死んだ。もし彼らが正しかったのであれば、われ
われも正しい。この新しい安息日を守れば、世との調和から外れ、彼ら
に感化を及ぼすことができない。7日目を守る小さな団体が、日曜日を
守る全世界に対抗して、いったい何を成し遂げようというのか?」

ユダヤ人が、キリストを拒んだことを正当化しようとしたのは、同様の
議論によってであった。われわれの先祖たちは、犠牲をささげることに
よって神に受け入れられてきたのだから、その子孫であるわれわれも、
同様の方法で救いを受けることのできないはずがあろうか、というので
あった。同様に、ルターの時代において、法王教徒たちは、真のキリス
卜者たちはカトリックの信仰をもって死んだ、それゆえにこの信仰は、
救いを受けるのに十分である、と論じた。しかし、このような論理は、
宗教的信仰や行為のあらゆる発達を、はなはだしく阻害するものである。


日曜日遵守は確立された教義で、幾世紀にもわたって広く行われてき
た教会の慣習である、と論じる者が多い。このような議論に対し、安息
日とその遵守は、もっと古くもっと広範囲のもの、創世以来のものであ
り、神と天使たちとの認めるものであることが示された。地の基がすえ
られ、明けの星が相共に歌い、神の子たちがみな喜び呼ばわったその時、
安息日の基礎が置かれたのである(創世記 2:1―3、ヨブ 38:6、
7参照)。

この制度がわれわれの崇敬を要求するのは当然である。それは、人間の
権威によって命じられたものでも、人間の伝承によるものでもない。そ
れは、日の老いたる者によって制定され、その永遠の言葉によって命じ
られたものである。

DSC_0077 / tracie7779

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年11月17日木曜日

再臨運動の歴史(32)安息日遵守は再臨の時の教会の特徴

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安息日はアダムの時から守ったもので、その後も忠実な人々が尊んできました。
最終時代に、永遠の福音がのべ伝えられます。その結果、神の戒めを守る、イエスを信じる信仰を持ち続ける聖徒が多数現れるのです。

「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」
(黙示録14:12)

創造主の休息と祝福とによって聖別された安息日は、罪を犯さないアダ
ムが聖なるエデンにおいて守ったものであり、また、堕落したが悔い改
めたアダムが、楽園を追放された後も守ったものであった。安息日は、
アベルから義人ノア、アブラハム、ヤコブに至るすべての家長たちが守
った。選民がエジプトに奴隷になった時、多くの者は、広く行き渡って
いた偶像礼拝のただ中で、神の律法の知識を忘れた。

しかし、主は、イスラエルを救い出された時、集まった群衆に、大いな
る威光の中で、ご自分の律法を宣言された。それは彼らが神のみこころ
を知り、永遠に神を畏れ神に従うためであった。

その時から現在に至るまで、神の律法に関する知識は地上で保たれ、
第4条の安息日は守られてきた。「不法の者」が、神の聖日を踏みにじ
りはしたが、その至上権時代にあっても、ひそかなところに隠れて、忠
実な人々が安息日を尊んでいた。


これらの真理は、黙示録 14 : において「永遠の福音」と関連して示
されているように、再臨の時のキリストの教会の特徴である。なぜな
ら、三重の使命が伝えられる結果として、
「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の
忍耐がある」
と言われているからである。そして、この使命は、主の再臨に先だって
伝えられる最後のものである。これが宣布されたあと、直ちに、人の子
が地の収穫を刈るために栄光のうちに来られるのを、預言者は見たので
ある。

Flower / 花(はな) / TANAKA Juuyoh (田中十洋)

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年11月16日水曜日

再臨運動の歴史(31)安息日を回復するとはどういうことか?

Red flowersRed flowers / dicktay2000

なぜ、安息日が回復されなければならないのか?安息日の回復がどのように行なわれるのか?
イザヤ書の預言が解き明かされています。

イザヤ書で譴責(けんせき)されているのは、「わが民」すなわち「神の民」と呼ばれる人々であることに注意しなければなりません。
神に仕えると公言する者が、神の律法を踏みにじっているというのです。

神の民と称する人々が、まず、安息日を守らねばならない。神が要求するとおりに守らねばならない。ということでしょう。自己流はだめ!なのです。

また、次のような命令が与えられている。
「大いに呼ばわって声を惜しむな。あなたの声をラッパのようにあげ、
わが民にそのとがを告げ、ヤコブの家にその罪を告げ示せ。」
罪の譴責(けんせき)を受けなければならない者は、邪悪な世ではな
くて、主が「わが民」と呼ばれる人々である。主は、さらにこう言わ
れる。

「彼らは日々わたしを尋ね求め、義を行い、神のおきてを捨てない国
民のように、わが道を知ることを喜ぶ」(イザヤ 58:1、2)。

ここには、自分たちを義とし、神の奉仕に非常な関心を示すかのよう
に思われる一団の人々が示されている。しかし、人の心を見通される
お方の、手きびしい厳粛な譴責は、彼らが神の律法を踏みにじってい
ということを証明している。

こうして預言者は、見捨てられていた戒めを指摘する。
「あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と
呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と呼ぶようになる。もし
安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、
安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊
んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語
らないならば、その時あなたは主によって喜びを得」る
( 同 58:12―14)。

  この預言もまた、われわれの時代に当てはまる。ローマの権力に
よって安息日が変更された時、神の律法に破れができた。しかし、神
の制度が回復される時が来た。破れは修繕され、代々の基は立てられ
なければならない。

red flower / davedehetre

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年11月15日火曜日

再臨運動の歴史(30)安息日は最終時代に回復される

sun rising in front of my roomsun rising in front of my room / rafiq s

安息日は最終時代に回復されるという預言が、イザヤ書に書かれています。
なぜ、安息日なのか?
神=主が世界を創造されたことがはっきりと記されています。安息日は創造主を示しています。
安息日が回復されるとき、創造主なる神が人々に知られ、あがめられるのです。
8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。(出エジプト記20章)


最後の時代に安息日の改革の働きが完成されることが、イザヤの預言
の中に予告されている。
「主はこう言われる、『あなたがたは公平を守って正義を行え。わが
救の来るのは近く、わが助けのあらわれるのが近いからだ。安息日を
守って、これを汚さず、その手をおさえて、悪しき事をせず、このよ
うに行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである。』」

「また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべ
て安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は―わ
たしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる」
(イザヤ 56:1、2、6、7)。


この聖句が、キリスト教時代にあてはまることは、その前後関係から
見て明らかである。「イスラエルの追いやられた者を集められる主な
る神はこう言われる、『わたしはさらに人を集めて、すでに集められ
た者に加えよう』と」(同 56:8)。ここに、福音によって異邦人
が集められることが予告されている。そして、その時安息日を尊ぶ者
たちに、祝福が宣言されている。こうして、第4条を守る義務は、キ
リストの十字架と復活と昇天を越えて、彼のしもべたちが福音の使命
をすべての国民に宣べ伝える時にまで及ぶのである。


主は、同じ預言者によって、「あかしをたばねよ。律法をわが弟子た
ちのうちに印せよ」と命じておられる(イザヤ 8:16・英語訳)。
Bind up the testimony, seal the law among my disciples.
(KJV)

神の律法の印は、第4条の戒めの中に見いだされる。十戒の中で、第
4条だけが、律法を与えた方の名と称号とを2つとも明らかにしてい
る。それは、彼が、天と地の創造者であることを宣言し、したがって、
他のすべてにまさって崇敬と礼拝を受くべき方であることを示してい
る。この戒めを除いては、だれの権威によって律法が与えられたかを
示すものは、十戒の中に何もない。

Sunset at SeaSunset at Sea / ThreeDee912
英文の挿入は投稿者による。
引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年11月14日月曜日

再臨運動の歴史(29)日曜休業令とは何か?

Flag at New York Stock ExchangeFlag at New York Stock Exchange / Eric Beato

日曜休業令とは、法律で日曜日を休むように強制することです。日曜日を守る (Sundaykeeping )よう法律を作り施行するので日曜休業令 (Sunday Law )といわれています。

今までにも、ドイツなどで部分的に日曜休業令が出ています。しかし、一部の地域だけに限られる特殊な条例です。

終末時代には、まずアメリカで始まり、やがて全世界的に日曜休業令が施行されることになります。ローマ教会(ローマ法王)とアメリカのプロテスタント教会は一致して、日曜休業令を発布、施行します。教会が国家権力と結合して、法令を出す。安息日を守る者には罰則を与える。こうして、信教の自由が奪われるのです。

日曜日遵守を受け入れることは、ローマ教会が定めた日曜安息日に同意することになります。聖書の安息日を知りながら、なおも日曜日を遵守するなら、獣の刻印を受けることになるのです。

日曜休業令 が獣とその像の強制となり、日曜日遵守が獣の刻印となるのです。


ローマ教会は、その至上権の主張を撤回してはいない。そして、世界と
プロテスタント諸教会は、聖書の安息日を拒否して、ローマ教会が造っ
た安息日を受け入れる時に、事実上この主張を認めるのである。

プロテスタント諸教会が、日曜日遵守を強要することは、法王制、すな
わち獣を拝むことを強要することである。第4条の要求を知りながら、
真の安息日の代わりに偽物を守ることを選ぶ者は、そうすることによっ
て、それを命じた唯一の権威に敬意を表しているのである。

しかし、宗教的義務を世俗の権力によって強制するという行為そのもの
によって、教会自身が獣の像を作るに至る。それゆえに、米国における
日曜日遵守の強制は、獣とその像の礼拝の強制となるのである。


しかし、過去においては、聖書の安息日を守っていると信じて、日曜日
を守ってきたキリスト者たちがいた。また、日曜日は神が定められた安
息日であると心から信じている真のキリスト者たちが、今も各教会にお
り、ローマ・カトリック教会も例外ではない。神は彼らの真剣な心と神
の前での誠実さを受け入れられる。

しかし、日曜日遵守が法律によって強いられ、真の安息日を守るべきこ
とが世界に明らかにされるその時に、神の戒めを破って、単にローマの
権威によるものにすぎないところの戒めに従う者は、それによって、神
よりも法王教をあがめるのである。

そのような人は、ローマに敬意を払い、ローマが定めた制度を強制する
権力に敬意を払っている。彼は、獣とその像を拝んでいる。

こうして、神がご自分の権威のしるしであると宣言された制度を拒んで、
その代わりに、ローマがその至上権のしるしとして選んだものを尊重す
る時に、人々は、それによって、ローマに対する忠誠のしるし、すなわ
ち「獣の刻印」を受けるのである。

こうして、この問題が人々の前に明らかに示されて、神の戒めと人間の
戒めのどちらかを選ばねばならなくなった時、それでも神の戒めを犯し
続ける人々が、「獣の刻印」を受けるのである。

Watch the watch / nicolasnova


引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(28)安息日の変更は聖書に基づいていない

Old Bible textOld Bible text / JacobEnos

安息日を土曜日から日曜日に変更したのは、キリストか?ローマ法王か?

以下の引用文中の聖書のことばから、キリストが安息日を変更したことを読み取ることはできません。

あるプロテスタント教会の牧師さんは「教会の権威によって日曜日に変更した」と言いました。

以下の引用文を読むかぎり、安息日を変更したのはローマ教会です。日曜日を礼拝の日としているプロテスタント教会は、ローマ教会に追随していることになります。

日曜日に神を礼拝するのは、聖書から証明することができません。聖書から証明することが出来ない限り、安息日はアダムの時から変わっていないことになります。神を礼拝する日は安息日=土曜日以外にありません。

安息日を変更することは、神の律法を変えることです。安息日の変更は教会の権威を意味し、「獣の刻印」と言われるのです。

しかし聖書は、主の日として、第1日ではなくて7日目をさしている。
キリストは、「人の子は、安息日にもまた主なのである」と言われた。
第4条の戒めには、「7日目はあなたの神、主の安息である」と言われ
ている。そして、主は、預言者イザヤによって、その日を「わが聖日」
と呼ばれた(マルコ 2:28、イザヤ 58:13)。

安息日を変更したのはキリストであるとよく言われるが、キリストご自
身の言葉が、そうでないことを証明している。彼は、山上の垂訓の中で
次のように言われた。

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃
するためではなく、成就するためにきたのである。
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の1点、1画もすたるこ
とはなく、ことごとく全うされるのである。
それだから、これらの最も小さいいましめの1つでも破り、またそうす
るように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろ
う。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と
呼ばれるであろう」(マタイ5:17―19)。


ローマ・カトリック教徒は、彼らの教会が安息日を変更したことを認め、
プロテスタントが日曜日を守るのはカトリック教会の権威を認めること
であるという。カトリック教会の教理問答には、第4条の戒めに従って
守るべき日についての質問の答えとして、次のように書いてある。

「古い律法の時代には、土曜日が聖日であった。しかし、教会は、イエ
ス・キリストの教えと神の霊の指導の下に、日曜日を土曜日の代わりに
した。それゆえに今、われわれは、7日目でなくて、第1日を聖なる日
とする。日曜日が、今では、主の日である。」

カトリックの著者たちも、カトリック教会の権威のしるしとして、「安
息日を日曜日に変更したという、まさにその行為」を挙げ、それは「プ
ロテスタントも承認している。・・・・彼らは日曜日を守ることによって、
祝祭日を制定し人々を罪に定める教会の権威を、認めているのである」
と言っている。

とするならば、安息日の変更は、ローマ教会の権威のしるし、あるいは
刻印、すなわち「獣の刻印」でなくて何であろうか。

Bible / Savio Sebastian


引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

2011年11月7日月曜日

再臨運動の歴史(27)獣の刻印は神の戒めを破ること

神の戒めを守る者と、神の戒めを犯す者を対比させて書かれています。

獣とは、神の戒めを破るものであり、獣の像も同様です。

旧約聖書ダニエル書には、「彼はまた時と律法とを変えようと望む」と預言されています。
彼とは小さい角で表される法王制のこと。
新約聖書では「不法の者」と書かれています。不法の者は神に反抗し、自らを神よりも高くします。
時と律法を変えることによって、神よりも高くなるのです。

預言は、獣とその像とを拝することについて警告したあとで、「ここ
に、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒・・・・があ
る」と宣言する。

神の戒めを守る人々が、獣とその像とを拝み、その刻印を受ける者たち
と、このように対照されていることから見ると、神を拝む者と獣を拝む
者との間の区別は、一方は神の戒めを守り、他方はそれを犯すことにあ
るとわかる。

獣の特徴、したがって、その像の特徴は、神の戒めを破ることである。

ダニエルは、小さい角、すなわち法王制について、次のように言ってい
る。「彼はまた時と律法とを変えようと望む」(ダニエル 7:25)。

そして、パウロは、この同じ権力を、神よりも自分を高める「不法の者」
と呼んだ。1つの預言は他の預言を補足する。法王制は、神の律法を変
更することによってのみ、自らを神よりも高くすることができたのであ
る。

だれであっても、こうして変更された律法を、それと知りつつ守る
ならば、律法を変更した権力に最高の栄誉を帰していることになる。法
王制の律法に従うこのような行為は、神のかわりに法王に忠誠を誓うし
るしとなるのである。

引用はエレン・G・ホワイト著「各時代の大争闘」 CD-ROM福音社版より。段落わけや背景色は投稿者による。

再臨運動の歴史(36)真理は反対を引き起こす

なぜ、真理は反対を引き起こすのでしょうか? 真理に従うことは、犠牲を要求されるからです。 耳ざわりのよい言葉のみを聴いているなら、反対は起こらないわけです。 聖書の預言を信じる人はほんのわずか。しかも、神の戒めに従おうとする者は非難される。 だから、「ここに...