2011年9月26日月曜日

再臨運動の歴史(7)天の聖所でのキリストの働き

聖所が天にも、あることがわかりました。地上の聖所を調べれば、天の聖所のことも理解できるはずです。

キリストは天の聖所で、大祭司として仕えておられることがわかりました。パウロはへブル人への手紙で、天の聖所におけるキリストの働きを明らかにしています。初代教会において、イエス・キリストが天の聖所で仕えておられることを、パウロや弟子たちが理解していたことは重要です。即ち、イエス・キリストの働きは、十字架で終わったのではないことが
わかるからです。

研究しているうちに、次のようなことが解った。すなわち、モーセが
神の命令によって、山の上で示された型にしたがって作った地上の聖所
は、「今の時代に対する比喩」で、そこで「供え物といけにえ」とがさ
さげられたこと、

またその2つの聖なる部屋は、「天にあるもののひな型」で、大祭司キ
リストは、「人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕
えておられる」ということ、

「キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所
にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみま
えに出て下さったのである」ということだった。
(ヘブル 9:9、23、8:2、9:24)

上記の元になった聖書の言葉は以下の言葉です。

「このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。」(ヘブル人への手紙8:1,2)

「この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。」(ヘブル人への手紙9:9)

「23 このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。
24 ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。」(ヘブル人への手紙9:23,24)


引用つづき
イエスがわれわれのために奉仕しておられる天の聖所は、尊い原型で、
モーセの建てた聖所は、その写しなのだ。地上の聖所に、聖所と至聖所
2部屋があったように、天の聖所にも2つの部屋がある。神の律法を納め
た箱や香壇やその他奉仕の道具が地上の聖所にあったように、天上の聖所
にも、これと対になるものがある。

聖なる異象を通して、天へ入ることをゆるされた使徒ヨハネは、そこに燈
台と香壇を見、また、神の聖所が開けた時に「契約の箱」を見た。
(黙示録 4:5、8:3、11:19)

2300の朝夕が終った1844年には、この地上にはもう幾世紀も
の間聖所がなかった。したがって「2300の夕と朝の間である。そし
て聖所は清められてその正しい状態に復する」との宣言の中にみられる
聖所は、天の聖所にちがいない。



こうして、預言の研究者たちは、地上の聖所と天の聖所との関係をはっきりと理解したのでした。聖所が清められる、とはこの地球ではなく、天の聖所が清められることだ、と結論したのです。

つぎは、天の聖所が清められる、とはどのようなことを指しているのか?を、研究せねばなりません。

(引用文は「生き残るひとびと」エレン・G・ホワイト著作選集CD-ROM 福音社版よりの引用、段落と背景色は投稿者による。)

2011年9月21日水曜日

再臨運動の歴史(6)聖所は天にもある!

聖所が天にもある!ことを発見した預言研究者たちが注目したのは、次の聖書の言葉でした。

「さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。」(ヘブル人への手紙9:1)


前文略
これが地上に存在した唯一の聖所で、聖書が記録しているものである。
パウロはこれを、初めの契約の聖所と言った。しかし、新しい契約に、
聖所はないのであろうか。
真理の探究者たちは、再びヘブル人への手紙にもどって、第2の、す
なわち新しい契約の聖所の存在が、すでに引用した「初めの契約にも
礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった」というパウ
ロの言葉に暗示されていることを発見した。

初めの契約「にも」と聖書に書いてあるのだから、新しい契約にも聖所があるのではないか?と、預言研究者たちは考えました。


そして、「も」という言葉が用いられていることは、パウロが前にこの聖
所について述べたということを暗示している。彼らは、その前の章にも
どって、次のところを読んだ。

「以上述べたことの要点は、このような祭司がわたしたちのためにおら
れ、天にあって大能者の御座の右に座し、人間によらず主によって設けら
れた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである」
(ヘブル 8:1、2)。

ここに、新しい契約の聖所が明らかにされている。初めの契約の聖所
は、人によって張られ、モーセによって建てられたが、これは、人間に
よらず主によって張られている。初めの聖所では、地上の祭司たちが務
めを行ったが、こちらの聖所では、われわれの大祭司、キリストが、神
の右で仕えておられる。一方の聖所は地上にあったが、もう一方は天に
あるのである。



聖書に天の聖所について、はっきりと書かれているのが、預言研究者たちに理解できたのです。天に聖所があり、キリストが天の聖所で働きをしていることがわかったのです。
かれらは天の聖所でキリストが何をしておられるのか?さらに研究を続けました。

(引用文は「各時代の大争闘」エレン・G・ホワイト著作選集CD-ROM 福音社版よりの引用、段落と背景色は投稿者による。)

2011年9月18日日曜日

再臨運動の歴史(5)失望を乗り越えて

キリストの再臨を待ち望んでいた人々は、失望しました。1844年にキリストは再臨しなかったからです。しかし、預言の計算方法は間違っていなかった、と確信した人々がいました。さらに、研究を進めた結果、この地球が聖所であるという考えは、聖書のどこにもない、ということを発見しました。

研究の結果、彼らは、地上が聖所であるという一般の見解を支持する
証拠が、聖書にないことを知った。しかし、聖書には、聖所とその本質、
場所、奉仕などの問題が十分に説明されているのを彼らは見いだした。

このことについての聖書記者たちの証言は、疑問の余地がないほど明瞭
で十分なものであった。使徒パウロは、ヘブル人への手紙の中で、次の
ように言っている。

「さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖
とがあった。すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台
(しょくだい)と机と供えのパンとが置かれていた。

これが、聖所と呼ばれた。また第2の幕の後に、別の場所があり、それ
至聖所と呼ばれた。そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱
とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したア
ロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケル
ビムがあって、贖罪所(しょくざいしょ)をおおっていた」
(ヘブル 9:1―5)。

聖所の目的や利用法は旧約聖書に詳しく書かれています。そして、新約聖書でも上記のように確認されています。再臨の研究者たちは、聖所についてさらに聖書を研究し、聖所が天にもあることを発見します。

引用は「各時代の大争闘」福音社版CD-ROMからの引用です。(段落や背景色は投稿者による)

2011年9月15日木曜日

再臨運動の歴史(4) 2300年後の1844年にキリストの再臨がある

2300年の後にキリストの再臨がある!預言の年代を計算すると、2300年後は1844年にあたります。計算方法は間違いないと聖書研究者ウイリアム・ミラーは確信しました。聖書の預言は過去において正確に当たっていたから、これからも正確に当たるはずです。

「エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひと
りの君が来るまで、7週と62週ある」
―すなわち、69週、つまり483年ある。アルタシャスタ王の
勅令は、紀元前457年の秋に実施された。その時から483年
がたつと、紀元27年の秋になる。

その時、この預言は成就した。
「メシヤ」とは、「油を注がれた者」という意味である。キリス
トは、紀元27年の秋、ヨハネからバプテスマを受け、聖霊の油
を注がれた。
エルサレムを建て直せという命令は、エズラ記7章に記されている。紀元前457年に、ペルシャ王アルタシャスタによって、最も完全な形で発布された。この年代が預言の計算のスタートになるのです。
メシアなる君とはキリストのことで、紀元27年にキリストは宣教を開始しました。


「彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう」
紀元31年、われわれの救い主は、そのバプテスマから3年半の
後に十字架にかかられた。カルバリーにおいてささげられた大い
なる犠牲によって、4000年の間神の小羊を指し示してきた
牲制度は終わった。型は実体と出会い、儀式的な制度のあらゆる
犠牲と供え物は、そこで終わるのであった。

ユダヤ人のために特に定められた70週、すなわち490年は、
これまで見てきたように、紀元34年で終わった。

その週の半ば=3年半の後、キリストは十字架に掛けられました。「犠牲と供え物とを廃する」とは、十字架の死によって、キリストは自ら犠牲となったことで、これまでの犠牲制度は終わったという意味。犠牲としてささげられた子羊は、キリストを表していたのでした。

ユダヤ人のために定められた70週が終わると、その後、福音はユダヤ人以外の異邦人に伝えられるようになります。

ユダヤ国民は、その時、サンヒドリンの決議によって、ステパノ
を殉教させ、そしてキリストの弟子たちを迫害することにより、
福音の拒否を決定的なものにしてしまった。それ以後、救いのメ
ッセージは、もはや選民に限られることなく、全世界に伝えられ
た。迫害のためにエルサレムを逃げなければならなくなった弟子
たちは、
「御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。」「ピリポはサマリヤ
の町に下って行き、人々にキリストを宣べはじめた。」ペテロは、
神に導かれて、カイザリヤの百卒長、神を敬うコルネリオに福音
を伝えた。また、キリストに対する信仰へと導かれた熱心なパウ
ロは、「遠く異邦の民へ」福音を伝える任命を受けた
(使徒行伝 8:4、5、22:21)。

ここまでの預言が成就したのだから、あとの預言も成就するはずです。1844年も成就するはずでした。

ここまで、預言に指示されたことはみな、驚くばかりに成就した。
そして70週が紀元前457年に始まり、紀元34年に終わるこ
とが、疑いの余地なく確定した。この年代から2300日の終わ
りを見いだすことは、難しいことではない。70週、すなわち
490日が2300日から切り取られると、あとに1810日が
残る。490日が終わったあとで、1810日もまた成就するは
ずであった。紀元34年から1810年たてば、1844年にな
る。

この大いなる預言の期間が終わったところで、「聖所は清め
られる」と神の天使はあかししたのである。こうして、聖所の清
め―それはキリストの再臨の時に起こるものと、ほとんどすべて
の人が信じていた―の時が、はっきりと指示された。

「聖所は清められる」という預言を、当時の人はキリストの再臨と信じていました。この地上が聖所であるという、当時の考え方を、当然のこととして受け入れていたからです。キリストが来られて、この地球を清めるのだ、と考えていたのです。


預言の年代(画像をクリックすると拡大画像が開きます)

(引用は「各時代の大争闘」福音社E.G.White著作選集CD-ROMより、段落の改行や背景色は投稿者による)

2011年9月12日月曜日

再臨運動の歴史(3)ダニエル書の2300の夕と朝、聖所が清められる

ウイリアム・ミラーはダニエル書の預言の研究によって、キリストの再臨の時を計算しました。旧約聖書ダニエル書の「2300の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」という預言は、2300日を経ると聖所が清められるという意味にとれます。

聖書の預言では1日を1年と数えることから、2300年経つと聖所が清められると解釈されます。そこで、ある時から始まって2300年経てば、聖所が清められるとの結論に達したのです。ウイリアム・ミラーは、聖所はこの地球を指すと理解していました。この理解は後で間違いとわかるのですが、この当時は普通に信じられていたのです。

キリストの再臨の時を最も明らかに示していると思われる預言
は、ダニエル 8:14の「2300の夕と朝の間である。そ
して聖所は清められてその正しい状態に復する」という預言で
あった。ミラーは、聖書を聖書自身の注解書とするという彼の
規則に従って、象徴的預言においては、1日が1年を表わすこ
とを知った(民数記 14:34、エゼキエル4:6)。
彼は、預言の2300日は字義的には2300年であって、ユダ
ヤ時代の終結する時をはるかに越えているから、その時代の聖所
を指すものではないということを悟った。ミラーは、キリスト教
時代においては、地上が聖所であるという一般の見解を受け入れ
た。

そこで彼は、ダニエル 8:14に預言されている聖所の清めとは、
キリストの再臨の時に、地上が火で清められることであると理
解した。したがって、2300日の正確な起算点を発見すること
ができれば、キリスト再臨の時は容易に確かめることができる
と、彼は結論した。

ここで言われている旧約聖書のダニエル8:14とは以下のような文脈です。もっと前の節から幻が続くのですが、略します。その意味内容は、
「その角」で表される高ぶる者が聖所を倒し、真理を投げ討ったという描写であることが、ここから理解できます。高ぶる者=ローマ教会であり、歴史上では法王至上権時代が1260年続き、その後で、聖所が清められる、という順序になります。
11 またみずから高ぶって、その衆群の主に敵し、その常供の燔祭を取り除き、かつその聖所を倒した。
12 そしてその衆群は、罪によって、常供の燔祭と共に、これにわたされた。その角はまた真理を地に投げうち、ほしいままにふるまって、みずから栄えた。
13 それから、わたしはひとりの聖者の語っているのを聞いた。またひとりの聖者があって、その語っている聖者にむかって言った、「常供の燔祭と、荒すことをなす罪と、聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられることについて、幻にあらわれたことは、いつまでだろうか」と。
14 彼は言った、「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」。
(旧約聖書ダニエル書8:11から8:14)

1260年の期間はダニエル書7:25から算出されます。「彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。」
「ひと時と、ふた時と、半時」=3年半=360日×3.5=1260日=1260年という計算です。

聖所とは、ひとの罪を贖う(あがなう)ために、神がモーセに型を示して造らせたものです。はじめは移動式の幕屋、やがてソロモンの神殿に代わり、紀元70年にエルサレムがローマに滅ぼされるまで存在しました。


引用文は「各時代の大争闘」エレン・G・White著からの引用です。(福音社 エレン・G・ホワイト著作選集CD-ROMより)(背景色、段落、注は投稿者による)

2011年9月6日火曜日

再臨運動の歴史(2)リバイバルと反対

イエス・キリストの再臨を説いた人々に呼応して、大宗教リバイバルが起こりました。しかし、一方では大反対が起こりました。再臨の預言の解き明かしを聞いた人々は、二派に分かれました。再臨を真理と認めて受け入れる人々と、受け入れず反対した人々に分かれたのです。

リバイバルの描写です。
世人に対しても教会人に対しても、来たるべき神の怒りからのがれる
ようにと、罪人に警告する鋭い証言が、至る所で聞かれた。キリストの
先駆者だったバプテスマのヨハネのように、説教者は、木の根元におの
を置いて、悔い改めにふさわしい実を結ぶように皆に警告した。彼らの
感動的な訴えは、一般の教会の講壇から聞こえる平和と安全の保証と、
著しい対照を示していた。そして、この使命の叫ばれる所では、どこで
も人々の心が動かされた。

罪人は泣きながら「救われるにはどうしたらよいか」とたずねた。不
正直な生活を送っていた人々は、一生懸命にその償いをしようとした。
キリストと和らいだ者はだれでも、他の人々も同じ祝福を受けるように
と望んだ。親たちの心は子供たちに向けられ、子供たちの心は親たちに
向けられた。高慢や自我の殻は打ち破られた。真心からの告白がなされ、
家族の者たちは、最も近い、最も親しい家族の者の救いのために骨折った。

あらゆる階級の人々が再臨信徒の集会にむらがり集まった。金持も貧乏
人も、身分の高い者も卑しい者も、いろいろな理由から、自分のために
再臨の教えを一生懸命に聞いた。神の僕(しもべ)たちが信仰の理由を
説いている間、神は反対の精神を阻止したもうた。時には器が弱い場合
もあった。しかし神の霊が真理に力を与えた。そうした集会では、聖天
使たちの臨在が感じられ、毎日多くの者が信者の群れに加わった。キリ
ストがまもなく来たりたもう証拠が繰り返されると、大群衆は息をの
んでそうした厳粛な言葉に聞き入った。

反対派の反対理由と心情です。
キリスト再臨の時期をはっきり定めて宣伝したことで、講壇の
牧師から天を侮る無思慮な罪人にいたるまで、あらゆる階級の
多くの人々から大反対が起った。
その日その時が、あなたがたにはわからないからである
という声が、偽善的な牧師の口からも大胆な嘲笑(ちょうしょ
う) 者の口からも聞かれた。彼らは、宣伝者たちが預言の期間
の終結をさし示し、再臨の兆としてキリストご自身があらかじ
め告げたもうたことをさし示して、聖句をはっきりと矛盾なく
説明するのに耳を閉じた。(注:聖句=聖書の言葉)

救い主を愛することを告白している人々の多くは、キリスト再
臨の教えに反対はしないが、ただその時期をはっきり定めるこ
とに反対なのだと宣言した。
すべてを見たもう神の目は、彼らの心を読みたもうた。彼らは
キリストが義をもって、世を裁くためにこられるのを聞くこと
を望まないのだ。彼らは不忠実な僕(しもべ)だった。彼らの
僕は、心をさぐりたもう神の吟味に耐えられないのだ。彼らは
神に会うことをおそれたのだ。

キリストが初めて来たりたもうた時代のユダヤ人のように、彼
らはイエスを迎える準備ができていないのだ。キリストの民で
あると告白している人々が、すこしもキリストを愛する心がな
く、キリストの現れたもうのを望んでいないので、サタンと悪
天使たちはこおどりして喜び、キリストと聖天使たちに嘲笑
(ちょうしょう) を浴びせた。

ユダヤ人がキリストの初臨 first comingを理解せず、キリスト・イエスに反対したことは一般には案外認識されていません。しかし、聖書にはユダヤの宗教指導者たちがキリスト・イエスに対して執拗に反対し、イエスを悩ませたことが書かれています。

上記引用文を読むと、聖天使、サタンと悪天使の存在が書かれています。人間の歴史の背景には、キリストと聖天使、サタンと悪天使が働いています。信じがたいことのようですが、聖書はそれらの存在を記しています。
エレン・G・ホワイトは「キリストと聖天使、サタンと悪天使の大争闘」という歴史観によって同名の著作を残しています。

上記の引用はE.G.White著、「生き残る人々」(原題:The Story of Redemption) からの引用です。エレン・G・ホワイト著作選集CD-ROM 福音社より(注、背景色、段落の改行は投稿者による)「生き残る人々」は絶版ですが、「贖いの歴史」と題してサンライズミニストリーから出版されています。

2011年9月2日金曜日

再臨運動の歴史(1)アメリカで始まった再臨運動

聖書における再臨(さいりん)second comingとは、イエス・キリストが再びこの地球に来られることをいいます。はじめに地球上にイエスが誕生したのを、初臨(しょりん)first comingといいます。

再臨運動の歴史は1800年代にアメリカで始まりましたが、あいついで世界各国で同様の運動がおこったとされています。

再臨運動の歴史をエレン・G・ホワイトの著作からみていきます。
エレン・G・ホワイトはアメリカの再臨運動の真っ最中に若い時を過ごしました。やがて多くの著作によって人々に神とキリストの真の姿を示し、キリストの再臨に備えをして、滅ぶことなく生きることができるようにと訴えています。

黙示録の1 4章に紹介されている第一天使の使命についての預言は、
1840年から1844年の再臨運動にその成就をみた。ヨーロッパで
もアメリカでも、信仰と祈りの人々は、この預言に注意をよび起されて、
深く心を動かされた。彼らは霊感の書を調べてみて、万物の終りが近づ
いていることを確信させられる証拠を見出した。神の霊は、警告を与え
るように僕たちをうながしたもうた。(注:霊感の書=聖書)
「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである」
という永遠の福音の使命は、遠く、広く、広がっていった。(黙示録 14:7) 
キリストが速やかに来たりたもうという喜ばしいおとずれは、宣教師
の進出して行ったいたる所に伝えられた。あちらこちらの国々に、孤立
したキリスト信者の群れが見出された。彼らは、ただ聖書を研究しただ
けで、救い主の再臨が近いという信念に到達していた。ヨーロッパのあ
る地方では、再臨の教えを宣伝することが、圧制的な法律によって禁じ
られていたので、幼い子供たちが使命を叫ぶようになり、多くの人々が
厳粛な警告に聞き入った。 
アメリカでは、ウィリアム・ミラーとその共労者に、使命宣伝の働き
が与えられた。彼らの働きによって点じられた火は、遠い国々にまで光
を放った。神は天使を送って、それまで聖書を信じていなかった一農夫
の心を動かし、預言を調べさせたもうたのだ。神の天使たちは、この選
ばれたミラーのもとを幾度もおとずれて、その考えを導き、それまで神
の民に全然解らなかった預言を悟らせた。真理の鎖の糸口が与えられた
ミラーは、その鎖を一環ずつさぐって行って、ついに驚異と賛美の念を
もって神のみ言葉を仰ぎ見るようになった。彼はそこに完全な真理の鎖
を見出したのだ。これまで霊感を受けたものではないと思っていた聖書
が、こんどは、美しく栄光に輝いて見えるようになった。

聖書の一部分は、他の部分を説明していることが解った。1つの聖句が
彼の理解をさまたげていると、他の聖句にその説明が見出された。彼は、
喜びと最も深い尊敬とおそれとをもって、聖書をながめるようになった。

アメリカの再臨運動はウィリアム・ミラーの知的な聖書研究によって始まったのでした。ミラーは農夫でしたが、聖書の研究に打ち込んだ結果、キリストの再臨が近いとの結論に達しました。
<聖書が聖書を解釈する> という研究方法は非常に知的な研究法です。印象や言い伝え、哲学、神学などの見解にとらわれず、聖書と語句事典(コンコーダンス:聖書の語句の索引)のみを使って聖書の終末の預言を研究したのです。


上記の引用はE.G.White著、「生き残る人々」(原題:The Story of Redemption) からの引用です。エレン・G・ホワイト著作選集CD-ROM 福音社より(注、背景色、段落の改行は投稿者による)

「生き残る人々」は絶版ですが、サンライズミニストリーから「贖いの歴史」と題して出版されています。

再臨運動の歴史(36)真理は反対を引き起こす

なぜ、真理は反対を引き起こすのでしょうか? 真理に従うことは、犠牲を要求されるからです。 耳ざわりのよい言葉のみを聴いているなら、反対は起こらないわけです。 聖書の預言を信じる人はほんのわずか。しかも、神の戒めに従おうとする者は非難される。 だから、「ここに...